歩きながら過去を味わう、ということについて
文章を書きたいから書いている。
書くことはやはり、現在を生きないことなのだろう。
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最近はその時の気分にあった、曲のプレイリストを意図的に作成している。
僕は楽曲に、自身の経験や感情を投影している。
だから、プレイリストを作るということは、自身の経験や感情を秩序づけるという行為に他ならない。
これはアーティストのCDを通しで聴くと、曲順に意図を感じるように、セトリというものがあるように、よく示されていることだ。
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僕は執筆をする場所を変えた。
今日は一人でいたい気分だから、2時間弱ほど散歩をした。
思えば、移動のため、仕事前のルーティンとして歩くことはあれど、ただ歩くために歩くというのは、久々のように思えた。
僕は図書館で文章を書いている。
その前は、図書館の近くにある広場で文章を書いていた。
そうしたら、見知ったクローゼットがいくつか散見されたので、僕は日時と雰囲気で察した。
変に拗れると、迷惑もかかるだろうし、僕自身、そういう身体反応を起こされても困るので、さっさと立ち去ることにした。
ただ、それだけだ。
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僕は今日、中学時代の大半を過ごした地域を、記憶をなぞりながら歩いていた。
僕はいわゆる不登校経験者で、僕は公立の中学校ではなくて、いわゆるフリースクール的なものに通っていた。
その地域に、今立ち入ると、その地域性を感じる。
少し福祉色が強いというか、クィア(という表現をすると含んでいるものが多すぎるか)というか、何にせよ、何となくいい感じがする地域だなと思うわけだ。
その地域を、移動のために通過することはあったが、同様の気分にならないということは、歩くということと乗り物で移動すること、散歩と移動は、趣旨が違うということになるだろうか。
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僕の経歴をざっと書けば、中学校は不登校でフリースクールに通って、高校は商業科に入って、簿記にハマって、大学では会計学を専攻して、教職課程を履修した。そのまま、公立高校で働いて、通信制高校で働いて、そのあとも何やかんやあって今に至る。
別に僕は履歴書みたいに経歴を積み上げて、何かをアピールするがために書いたわけではないので、言いたいことを述べるとすれば。
同じ、不登校だったという経験を持つからといって、別に教員になるとか、当時の自身を何かに投影して、なんかしてやろうとか、みんながみんなそう思うわけじゃないよなあ、と思ったのだ。
そんなことを昔、遊んでいた友達の家の前を通り過ぎながら、ふと考えついた。
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じゃあ、なんで僕は教師になろうとしたのか、と問われると、とりあえず思うのは何だったんだろうね、ということになる。
つまり、今の僕にとっては教師であること自体に、強い執着を感じるわけではないのだ。
とりあえず、思いつくことを書き続けていくと、いわゆる公立学校の教育の在り方(デカくでたもんだ)に疑問があったような気がする。
あとは、自身の進路選択を考えるときに、教師になるという夢や目標を持ち続けていた方が、考えなくて済むので気が楽だったような気もする。
だって、教職を目指しているのって、外面的にも、そんなに悪くないわけだし。
まあ、サラッと書いているが、その自身の進路選択については、大学時代に随分と考え込んだような気もする。
じゃなきゃ、キルケゴールもサルトルも触れてないわけだ。
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教員をする動因に、いわゆるメシアコンプレックス的なものがあることに気がついたのは、通信制高校で教師をしていた頃だった。
これは随分と僕を困らせた。
何せ、中途半端にアドラーや認知行動療法、スキーマ療法みたいなのを知っているので、タチが悪い。
自己分析とか自分のアイデンティティみたいな要素を、変にこじらせ続けていた。
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意識していた範囲で、話していたのは、生徒に資格を取る中での成功体験、みたいなことだったのか。
これは僕自身の商業科での高校生活に依拠していて、僕は地頭みたいなのは悪くないようだったので、あまり頭の良い高校ではなかったけれども、いい感じに勉強ができる感を味わった。
だから、高校生が取得するような資格はある程度取ったし、そういう自己肯定感を積み重ねていたのかもしれない。
勉強をして、偏差値の低い高校から抜けて、大学に入って、不登校だった時の自分を払拭するように、普通の人間みたいな、つまり、一般的な学生生活ってこうだよね、というイメージに乗っかりたかったのだ。
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最近、母校じゃない大学の学生さんに誘われて、読書会に参加している。
その大学は県内で一番頭がいいところなので、僕は少々萎縮する感じもあるけれど、こんな機会じゃなきゃ立ち入らないから、たまに参加している。
その大学で、春だったこともあって、いわゆる新歓がキャンパスで行われていた。
その雰囲気を感じると、僕も大学でそんな時期があったなあと思うのだが、それと同時に、別にこの時に戻りたいわけでもないな、とも思った。
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「君が一番戻りたいのはいつ?どこ?」と誰かに聞かれた。
僕は通信制で教師をしていたころに戻りたいと、平静さを取り繕えないまま話していた。
でも、その人によると、そこはホントウじゃなくて、もっと前だと言った。
まるで精神分析みたいだ。
そうなると、ふと浮かぶのは、あの不登校だったころのフリースクールだ。
僕は小学5年生の時に引っ越しをして住む地域が変わったのだが、不思議とそれ以前の頃に戻りたいと思ったことは、ないような気がする。
色々な生活があったけれど、一番しっくりくるのはフリースクールだった。
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僕は細々と仕事をしているのだけれど、ある人に僕らがしている仕事の雰囲気が「大人のフリースクール」みたいだ、と表現された。
僕は回顧して、作りたいと思っている場所は、以前の通信制高校の雰囲気なのか、それとももっと昔の感覚だったのか。
何にせよ、こういう場所が社会にあるということを必要とする人がいる、とある程度の確信があるので、取り敢えずやり続けようと思っている。
まあ、その必要とする人とは、一体誰のことだったのか。
そんなことは、もう知っていることなんだけど。
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ふと、思う。
随分、自分自身は色々ボロボロなんだな、ということに。
何にせよ、その人自身を形成しているものは、複合的であって、単一の尺度で語ることで削ぎ落とされることが多くある。
俺がどうして生徒を嘲笑している大人を見たり、利用者を手段として扱う人を見ると、熱くなってしまうのか。
スキーマだとか、カントだとか、人権感覚だとか、後付けでは色々ごちゃごちゃと解釈できるんだけれど、まあ熱くなれることで、何かをするエネルギーになるなら、それでいいのか。
見えない何かに突き動かされているのが、その正体が何なのか、僕は知らない。
僕の脳機能的なものなのか、躁的なものなのか、昔に植え付けられている身体反応なのか。
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何にせよ、間違えないように、肥溜めにダイブしないように、したとしても、もうちょっと上手くやるさ。
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