私が「青瀬七」を始めた理由

「青瀬七」は2019年9月、ツイッターのアカウントを開設したことから始まりました。当時私は絵を描いたり文章を書いたり、音楽を作っていて、これらが誰かのためにならないかなあと思っていました。

早速ですが、私の願いをまず書こうと思います。
ひとつめの願いは、少しでも優しい世界になって欲しい。思いやりを持って優しくなれる人が増えて欲しい。私の思想が広がって、そう出来る人が少しでも増えて、世界がちょっと、優しくなって欲しい。
ふたつめの願いは、私の思想や文章、音楽で救われる人、ちょっと元気になる人、勇気付けられる人が、1人でもいるかもしれない。私の存在を待っている人がどこかにいるかもしれない。そう思ったからです。
その「1人」を見つけ出すには、どうしても母数が必要です。私は有名になることや、自己承認欲求もありませんが、母数を増やすためにまずフォロワーが必要でした。
どうやっていこうかな、と考えていた時に、今所属している配信ライバー事務所の方に声をかけて頂いて、ポコチャという配信アプリでライバーとして活動しています。

ここからはショッキングな描写があります。苦手な方はベージを閉じてください。






私は中学3年生のときからうつ病、自律神経失調症を患っており、高校の3年間はほとんど学校に行っていません。
母との関係は最悪でした。毎日のように取っ組みあって私が泣き叫ぶので警察を呼ばれたこともあります。娘である私は不登校、経済的問題もあり家庭内はいつも不穏でした。父親のいない私の家で母は本当に苦労したと思います。

高校3年生の夏休み、4日間家出をしました。家にいるのが耐えられなかったからです。
それでも4日目、「やっぱりさみしい」と思って、実家に帰りました。
みんな、無事で良かったねって、抱きしめてくれると思っていました。
帰宅した私に家族は皆、ひたすら糾弾しました。もしなにか事件に巻き込まれていたらどうしていたの、もしなにかあったら、と。余裕のない中そういった反応になるのは仕方の無いことなのでしょう。ただ17歳だった私には深い傷となって、今でも残っています。
「じゃあ、無事じゃなかったら良かったね」本当にそう思いました。

その中でも、一人だけ私の味方でいてくれた人がいました。当時の担任の先生です。その人の言葉で、私は今日も生かされています。



2020年8月6日、私は自殺しました。現に私は生きているので、未遂で終わったということですね。よく分からないけど、助かったみたいです。
睡眠薬をODして、風呂場の浴槽の中にうずくまってカミソリで切れるだけ腕を切り付けて、それでも物足りなくてニードルを血管に刺して瀉血しました。浴槽は真っ赤な血溜まりでいっぱいになりました。
1番お気に入りの可愛いネグリジェを着て、タオルをドアノブに引っ掛けて、私は首を括りました。
何年も毎日、いかに自殺することばかり考えていたので、首吊りをしたら見苦しい姿に仕上がるのは分かっていました。まだ綺麗なうちに発見してもらえるよう、信用の置ける友人が頃合に家にくるように手配しました。彼は家の鍵を持っていないので、夫も同時に来るように彼に頼み、17:45頃、私は意識を失いました。

目が覚めたのは23時を回っていたと思います。知らない病院のベッドに寝かされていて、両腕にたくさんの管が繋がれていました。状況が分からないので起き上がろうとしても、身体の力が抜けて何度もベッドから落ちそうになりました。よく分からなくて、私はずっと笑っていたような気がします。

その日のことに関して、夫はもちろん、親は思い出したくないと言って、詳しいことは教えてくれませんでした。
後日、信用の置ける友人から、私が気を失っていた数時間のことを聞きました。

病院に駆けつけてくれたのは、夫、友人、私の母親、夫のお母様です。私が命に別状はないとわかると、みな口を揃えて言ったそうです。

「明日も仕事なのに迷惑」「どうせ本当に死ぬ気なんてなかったんでしょ」「親族にこんな人間がいるなんて許されない」

ああ、またそうか、やっぱり本当に「無事じゃなかった」方がよかった。


二人だけ、と言ったら失礼でしょうか、ただ二人、私が欲しかった言葉をくれた人がいました。
「生きててくれてよかった」「もし死んだりしたら、自分は泣くよ、絶対」

嘘でもいい、そうやって声をかけてくれる人がいたことに、私は救われました。
その言葉がなければ、皆さまとお会いすることは、ありませんでした。


たったひとつの、何気ない言葉で、人は死に、生かされます。その人に必要な言葉はその人によって違います。

私は、痛みを、苦しみを経験してきたからこそ、誰かに寄り添いたい。そんな私を見て、自分もそうしようかな、と思ってくれる人が1人でも増えたらいい。そう思っています。

私は来春から大学生になり、高校の教員になります。教員を目指したきっかけとしては、まず私が「学校」という場所に馴染めず不登校になり、それが心残りであること。生徒と教員、立場は違えど、「学校」という場所でやり直したいと思ったからです。
また、私のように不登校や家庭の問題、病気で苦しんでいる子どもは確実に存在します。その子にとって、理解することが出来る、寄り添うことが出来る教員でありたい。私ならなれる。そう思っているからです。
これは、前述した私の当時の担任の先生に救われたからです。私も彼のようになりたい。


長くなりましたが、これが、「青瀬七」を始めた理由です。実際のところ、「青瀬七」は教員になるまでの予行練習、みたいなものですね。

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