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わたしのモットーについて

実はインフルになり仕事をお休みしている。で、びっくりたまげた事に8日間も休みとなって発熱してから3日間ほどは体調が超絶悪く、4日目くらいから症状も落ち着きはじめ、下熱もして数日経つのだけれど、まぁもちろん出禁なのでお家でダラダラと過ごしつつ、なんとなしに母と連絡を取るようになった。
一人暮らしをして早3年ほど経ち、連絡するのは滅多にない。そんななか、色んな事柄を電話やラインなりでここ最近ずっとお話をして昔に戻ったような感覚があった。実家にいるときはなんでも相談しては、それこそ休みが合えば二人で出掛けたりして、仲はとても良かった方だと思う。
ほんの数日とはいえやり取りを通じて改めて思い返したことがある、それは"母は偉大だな"ということ。
それもこれも、『好きなことを、自由に』のモットーはわたしの母の影響が強い。
だが母はそういう生き方をしてきてはいない、どちらかというと選ばざる得ない道を選択した一人である。
過去を辿ると、私の母はお見合い結婚で、自分で求めたわけでもなく、親同士が決めた人と結婚をした。
田舎(※中部地方の某県とする)から出るには都会へ働きに出るか、結婚して住むかしかなく、結婚という道を選び都会(※関東地方の某県とする)へと移った。
聞いた話では、まわりのみんなはとても、それはとても良くしてくれたと言う。義理の両親、親戚は親切でこちらのことを分からない母に懇切丁寧に教えてくれた。
でも、全てそうではなかった、最初の壁は、父にあった。
離婚間近という所まで追い詰められ、自分の故郷へ幼い娘を連れ帰ってきたこともある。そこで、親族のまわりの一押しで父が母に願い、なんとか戻ってきたのである。多くは語られてはいないが、相当の一大な事件だったのだろうと考えられる。
とまぁ、実は何度か離婚の危機はあるのだがそれはまた別の話で。※離婚はしてません。
第二の壁は、ご近所付き合い。
共働きだったため、町内会の集まりは出れるに出れず、当時はお休みが極端に少なく働き盛り。
でも会費や寄付はしっかりとしていた。極たまに出席できるときはしていたが、これがまたなんとも凄まじい。
そう、ママの集まり=いじめという過酷な長い、長い戦いが幕を開けたのだ。
実は当初、母がいじめられていたことを知らなく、町内会の夏のお祭りの手伝い(最後の年)で母と共にいた時に、打ち明けられたことで知ったので、かなり衝撃だったことを未だに忘れられない。
その日の晩に、居ても立ってもいられなくて「いつ気づいたのか」と母に訪ねた。
「最初は気づかなかった、でもある時から仕事を無理やり押し付けられて、その次は話しかけても無視された。ね、明らかにおかしいでしょう?」思わず眉間に皺を寄せながら、なんてちっぽけな心しか持ち合わせていない大人ばかりだろうと悔しかったことを覚えてる。「でもまだあんたがいるし、それから後に○○(*弟)が産まれたから、最後まではなんとしても参加しないといけないし、なんせ△△(*父)のお父さん(*祖父)は元は町内会の役員だったから、辞めれないでしょ」と母は酒を片手に話してくれた。
そんなことなどしたくないはず、でも建前や守るべきものがあり、そうせざる得ない状況下で12年間もずっとそこに居続けた。
「わたしなら…辛くて逃げたくなるな」と零すと「酒と好きなものを食べて、旅行へと行ける。それがあるから、嫌なことも忘れられる」そう、話す母がとてもキラキラとして見え、自分で選んだ道だから、その場所での楽しみを見つけて、自由を謳歌していく。
よく、わたしの家族は「自由人ばかりだから、しゃーないな、好きなことをなんでもしな」という。
言われてみれば、習い事のピアノ(今はもうしていない)だって、落書きから始まった絵だって、一人でふらりとする旅やそれこそ一人暮らしや今の趣味も全てにおいて、好きから始まっている。そして、選択肢を自分でしている、やるかやらないか、自由に。
その大本は、強い心と柔軟な性格と誰よりも自由を求め、その苦しさを知っている母がわたしの心の支えであり、道標としてずっと生き続けているからだ。