映画「ジョーカー」を四回観て思ったこと

映画「ジョーカー」が好きすぎて四回も観てしまったので、ジョーカーを観て思ったことを書いてみたいと思う。まず、ジョーカーはラストに大きな謎が残される構成になっているが、これについての考察などは俺的には正直どうでもいいので他の人に任せたいと思う。

俺は映画に精通しているわけでもないし教養とて同じなので、批評家のように他の作品やら歴史やらと絡めて何か小洒落た批評を述べるようなことはできない。俺が出来ることと言えば身近なことだったり世間の時事問題などを何となく語るだけであるが、この記事を読むのであれば、その前にそもそも俺が世間に対してどのような考えを持った人間なのかを知るとより良いかと思ったりする。それについては、この記事のひとつ前の記事を読んでいただければ十分であろう。


では、本題に移りたいと思う。


世の中には不器用にしか生きられない人間がたくさんいる。社会という凸凹のピースに対して何となく器用に形を変えて馴染んで生きている人もいるが、それができない人というのは、すぐに阻害されるため可視化されないだけで、思いのほかたくさん存在するものである。
俺が思うに、人畜無害と呼ばれる人のうちの9割5分は「心根が優しい」とか、「人間が出来ている」というより、他人と対立するなどのトラブルを避けるために、ただ我慢しているだけでないかと思う。なぜなら、その人たちはそうすることでしか人間関係を維持出来ないからである。彼らは不器用で、相手と対立関係にある場合に折衝が出来ないのである。「あなたはそう思うかも知れないが、私はこう思う」と小さな対立をしてからの、揚棄の仕方が分からず、相手から共感を引き出すことができないのである。
彼らは総じて口下手で、バカにされやすく、他人から敬意を払われないことが多い。そのうえ、そういう人物が何か反論をすると、そうでない人に比べて往々にして厳しい対応を取られ、対立は深まりやすいものである。だから、彼らが他人と対立した場合に得られる選択肢は、自分が我慢して相手に従うか、相手との関係により大きな溝を作るかのいずれかである。そして大きな溝を作って余計に面倒な事態になるくらいなら、自分が我慢してしまおうというのが不器用な人たちの生き方である。

アーサーもまさにそんな不器用な人々と同じで……というかそういう不器用さと不幸のバラエティパックのような境遇の人物である。ストーリーの序盤、アーサーが街の不良少年に仕事で使う看板を破壊されたうえにリンチされた挙句、上司に弁償しろと言われるシーンがある。アーサーは「なぜ私が」と一応の反論はするものの、上司には全く相手にされず説教も止まらないので、卑屈な笑いを浮かべ上司の言うことを黙って受け入れることに徹し、人畜無害でいようとする。そして誰もいない裏通りで、抑圧された怒りをゴミ箱にぶつけたりする。突然笑い出すという発作のせいで気色悪いと思われたり軽蔑の目を向けられたりして肩身を狭くするのも日常茶飯事である。

驕れる人間は忘れがちであるが、他人から不当な扱いを受けても、なお人畜無害でいられる人間などいないということを、ゆめゆめ忘れてはならない。

「こいつは俺より格下だし逆らって来ないだろう、仮に逆らってきたとしても難なく撃退してやる」と舐め腐っていると、とんでもない目に合うことになる。屈辱を受けた相手の内面には計り知れぬ憎悪が溜め込まれているのだ。彼らはトラブルを避けたいがために我慢しているだけであって、トラブルさえ厭わないほどに憎悪が増幅すると、リミッターが外れて、抑圧された憎悪がまるでダムが崩壊したか一気に流れ出す。こうして、アーサーは地下鉄で証券マン三人を殺害するに至るのである。

映画ジョーカーでは上流層と貧困層の対立が描かれているが、これを上下の対立という言葉で抽象化したままにしておくと「社会に不満を持った貧困層がジョーカーという存在を自分のシンボルにして暴れまわった」程度の理解で終わる。それではアーサーがマレーに対して熱弁した主張についても半分も理解できないであろう。

なぜアーサーがジョーカーになったのか、なぜ貧困層がジョーカーに共感したのか、アーサーがマレーの番組に出演し、発した主張の意味を正確に理解するには、そもそもなぜ上下の対立が起きたかについて、正確に理解する必要がある。

貧困層の民衆が蜂起するに至った原因は何だろうか? それは「貧困そのもの」ではない。もちろん背景にそれも含まれるであろうが、作品において貧困層代表とも言えるアーサーは、母親のペニーに「お金のことはどうにかするから心配しないで」と言っているし、原因はもっと他にあるように思う。


アーサーが証券マンの三人を殺害した際に、トーマス・ウェインがマスコミの前で「社員を殺した人間は仮面を被ってしか人を殺せない卑怯者だ。『我々の築いた社会』では『彼ら』のような者は落伍者だ。ただのピエロでしかない」と放言したわけであるが、舞台となるゴッサムシティは、衛生局のストライキでネズミが大量発生しているし、スラムでは子供が犯罪を犯すような環境で、アーサーが通っていた心療所も予算の縮小により閉鎖されるわ、他の福祉サービスもどんどん縮小されるというような状況である。
これらを決めたのはゴッサムシティの行政であり、その後ろには社会を支配する上流層の存在がある。彼らの采配により貧困層は社会の隅っこに追いやられており、その不満は爆発しようとしていたのである。そのため、世論の中にはエリート証券マンの三人を殺したピエロを支持する声も少なからずあった。

そのような状況のなか、トーマス・ウェインは「『我々の築いた社会』では『彼ら』のような者は落伍者だ。ただのピエロでしかない」と言い放ったわけで、そうすると貧困層が激怒するのは当然のことである。要するに、自分たちが社会を築いたと自負するにも関わらず、その社会によって生まれた貧困層を落伍者と見做してまともに取り合おうともしない上流層の驕りが暴動を生んだ原因だと言えるであろう。

ではこの映画の中で、アーサーや貧困層の市民が上流階級から取り戻そうとしていたのは何か?

それは、この社会における一人の人間としての尊厳である。

アーサーは心療カウンセラーに「自分がこの世に存在するのかどうか分からなくなる」と吐露する。これは社会の中で、自分達の尊厳が無視されてきた貧困層の苦悩そのものではなかろうか。
アーサーがトーマスウェインが自分の父親であるかもしれないということを知ってトーマスに会いに行ったとき、アーサーはトーマスに自分という存在を認知して欲しくて「僕だよパパ」と訴えるも、トーマスは「お前の母親の妄想だ、お前の母親はクレイジーだ」と言ってまともに受け取りもしないし、テレビ番組でアーサーとマレーと対峙した際もアーサーが「俺が歩道で死んだって踏んでいくだろう」「外では皆が大声で話し、礼儀もなく、他人に気をかけようともしない」と叫ぶが、マレーは「それで終わり? 自分を憐れみ、殺人の言い訳をしているだけだ」と取り合おうともしない。

世間は誰もアーサーの言うことに耳を傾けないし、やることといえば、彼をただ嘲笑するか蔑視するだけである。アーサーはそんな連中に、自分が確かにこの世に存在することを知らしめたかったのだ。

テレビカメラの前でアーサーは「俺に失うものは何もない」と言っていた。
しかし、それでも生きている限り尊厳は自分の中に残っているのだ。むしろ、失うものが何もないからこそ、尊厳の比重は他の者よりずっと重いのである。その尊厳までも上流層の人間が奪おうとするならば、暴力で対抗する以外にない。それはアーサーだけでなく貧困層とて同じである。「黙っていい子」にしていても、上流層の人間が貧困層の人々に目を向けることは絶対にないからだ。
だからアーサーと貧困層は暴力を行使したのである。自分たちを無視して、人としての尊厳まで奪おうとするのならば一体どうなるか、自分たちを顧みぬ上流階級に、暴力をもって示してみせたのである。


現実においても社会的な立場だったり、本人の性格だったり、身体的な理由だったりで、不当に軽んじられる人間というのは、どこにでも存在するものである。器用な人間ならばそれでも相手を見返してやるだけの力量を持ち合わせているであろうが、不器用な人間の場合はそういうわけにもいかない。彼らがそこで生きていくには我慢するしかないである。他の手段を持たないから、そうやって必死に生きているのである。そんな彼らの尊厳を奪おうとするならば、彼らはもう武器を持って立ち上がるしかないのだ。


実際、不器用な彼らを世間がつまはじきにしてきたことで起きた凄惨な事件というのは幾つもある。海外でも銃乱射事件が毎年のように起きているし、日本の事件においてもわざわざここで列挙するべくもないであろう。

これらの問題を「ゲームの影響だ」とか「精神病者の異常行動だ」とか、そういう言葉で雑にまとめあげて、彼らだけの問題で片付けるのは実に楽であるが、そうすることで彼らはより鋭利に刃を研ぎあげることになる。
社会が彼らの存在を無視し続ければ、いずれまた凄惨な事件は起こるであろうし、彼らの行為を支持する人間もまた、増え続けるのである。

どんなに貧しくても、社会においてどんなに取るに足らぬ者であっても、一人の人間として存在することを認識し、一人の人間として敬意を払わなければこうなるのだ、というのがこの作品のメッセージではなかろうか。

最後に、このジョーカーは上流層と貧困層の対立が描かれているが、そこには中流層は殆ど出てこない。それはストーリーのコントラストをより強めるためであろうが、この映画で取り扱われたことは、中流層の人間こそよく考えるべきである。

「中流層」という字面からすれば真ん中の位置であるように聞こえるが、自分たちが「貧困予備軍」だということを自覚するべきである。なぜかというと、中流層だってやっていることは貧困層とそんなに変わりがないからだ。
自分が持つ資本のみで生活するだけの収入が得られるほど資本がないので、代わりに自分の時間と労働力を切り売りして収入を得ているのは中流層も貧困層も同じである。違うのはせいぜい仕事の内容と待遇くらいのものである。中流層も云わば身体が資本な状態なわけで、身体を壊したりすればあっという間に貧困層に落ちる。それは良い大学を出てエリート街道を歩んでいるサラリーマンであろうが同じである。上流層に行き着くための壁はものすごく厚くても、貧困層とは板一枚なのだ。

中流層の人間が貧困層を笑っていても、次の日には自分が笑われる番になっている可能性は十分にある。だから中流層こそ、肝に命じなければならないのである。

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