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月がかわった

このところわたしも彼もなにか
今までとは、ちがう。

それがなにかはほんとうは、すっかりしっている。
わたしも彼もおなじ変化だから、100%の変化
といえる。この家に住むのはふたりだから。

わたしのある変化(そのことについては後日)が起きたのを 
日記にも記してあって
おなじ月に彼が
「最近月が変わったよね。月がやさしくなったなあ」
といった。

彼は占星学的なことにはまったく興味をむけていないしむしろ
懐疑的ですらあるから、その手の情報から得たものではなく
ただ感じたということだ。わたしはへーとかほほーってくらいの
返事をしたんだと思う。きっとなにかをしていながらだろう。
うっすらした記憶からそういえる。
(日記は大切)


あの日から時は経ち、最近になってああそうか!!
とひとり大合点をした。
先頭に書いたように、変化にこちらが追いついていけず
このように記すことも追いつかない。
(いろいろなことが結びついてきて、しばらく経ちようやく
今こうしてここに記している)

わたしが彼になにかをたずねれば、せきを切ったように話し出し
その話にまるで追いつかない。
わたしが問う、ことによって、彼のなにかが開かれて
そこへ、そのテーマをもった情報が次々に流れてくる
という感じをうける。以前からそういう特徴をもってはいたけど
最近はその量やスピード、質をましている。

わたしは何かに夢中になっているときに
ふと思いついて聞いてしまうものだから、
わたしの手の動きと彼の話をきくことのバランスは
もちろん平等にはならない。
とっても大切なことをきっと、聞き逃している。

月がかわったことさへ、あやうく消えてしまうくらいの記憶しか
とどめていなかった。そこを本気でどうにかこうにかしていこう。

話をもどそう。
そう、それらの変化は、

月がもたらしている

ということだ。


わたしは占星学というものを、あるときなぜかちゃんと学ぼう
と思った。つぎの週にnoosologyに出会う。
わたしにとってどちらもまったく未開の地であり、もちろん今だって
そのころとさほど理解には変わりはないけれど
想いついたことになんの疑いもなく自分をこころのままにさせ
集中力をもってとりくんでいるふしぎがあった。
自分のなにがそうさせているのか、知りたかった。
そのいくつかあるうちのひとつ、これは確かだと思うのは



月がかわった

ということだ。

今までにない月になったのだ。



今自分で感じていることの一割も表現できずにいるのを
ほんとうにもどかしくおもう。
もっともっとおおくがここにかさなりあって
表現されるのをまっている。
おもい=意識が言葉にされるのをまっているのだ。
ごめんよみんな(複数形の意識?)。もっとそのかさなりを
オビのひとつひとつを
わたしという存在のなかにたぐりよせ
自分のこころをとおした言葉をつむいでゆくから。(意識‘sへ)

それはわたしという存在の本質であるように思う。
そのことによってみることのできない世界は
言葉というかたちをまといあらたな世界のなかで
存在をしだすのだ。

 

追いつかないのは、今までこころにきたものを
言葉にすることを本気でやってこなかったからともいえる。
その理由は
わたしが発したところでどうなるのさ
というその思いのさらに奥にある、あるものに席をゆずる
というくせだ。


でも月はかわった

それですべてが解けてくる


もう以前のようにはなれないのだ

天体と人間はおなじ動きをいきているから



「開け放たれた空間で

この命の発露をどこにむけて

活動させてゆくのか

ひとりひとりがそこをむかえるときがきた

その感覚をしりたがり

あらわしたがり

そこへと命はもう動きはじめている

いっさいはゆらぎ

とめどもなく流れる叡智の種をいま

このこころにうめよ

わたしたちはいきている

もっといきることができ

もっと自分であることをしり

もっと宇宙であることに近づく

わたしたちのなかにある声はいう

どこにいようとなにをしようと

自分という存在の愛をみつけよ

かぎりなくつづいてきたその愛を

いま放て」


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