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事実と報道

ツィッターやYouTube、フェイスブックなど、個人相互の通信は結局、一人へではなく、大量の人への発信に使われる。大量への発信という点では、放送と変わらない。
たくさんの放送局がプラットフォームの中に存在するという形だ。
放送は、事実の検証が義務付けられる。SNSにはそれがない。送る側への信頼とそれを築く倫理と努力と規制が放送局にはあるが、SNSにはそれがないということ、しかし、影響力は、同じくらい強くなっている、いや、むしろ、感情に訴えるやり方やフェイクが結果的に野放しになり、もちょ影響力を持つようになっている。

事実の検証とは、まず、発信された一つ一つの出来事が本当にあったのか否か。しかしそれだけでは足りない。ニュースというものは、脈絡の塊として発信される。その脈絡が正しいのか否か、その検証が難しい。
難しいから、ある放送局は、あまり、検証なく表面的に語り、ある放送局は脈絡を語らないから、おもしろくなく、意味、意義を持ちえなくなる。

SNSの現状から考えても、放送の仕方には違う視点が必要と思われる。ニュースを放送することがニュースリテラシーを醸成するようなニュース番組にするという視点だ。
つまり、脈絡を複数提示し、検証がどこまでできているかを正直に
示すような過程を見せてゆくニュースである。
これによってニュースを受け取る人々は、考え始めること、ニュースはどうやって発信されるのかのリテラシーを得て行く契機を得ることができるのだ。
ニュースを無謬の完成品として作ろうとしてはいけない。
真実は常に検証されねばならず、そこから人々が意味を導き出し、民主主義的過程で意見を交換し、ある決定を出してゆくことにニュースが寄与するには、ニュース自体がその過程を広げて見せること、余剰であることを見せてゆくようなものでなければならない。
事実から意味形成への過程をニュースは
多義的に提示してゆかねばならない。

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