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タイトル未定のなかへ

〜ワンマンライブ『SPOTLIGHT』〜


 タイトル未定2ndシングル「群青」はメディア先行でリリースされた。
 CDの発売はビッグイベントなので、いわゆるライブアイドルでは発売日前にリリースイベント(ミニライブ)を重ねることも一般的だと思うけれど(売上ランキング上位を目指す場合など)、「群青」については発売前のライブはなく、ラジオのタイトル未定冠番組での楽曲の初披露、地元テレビ局の朝の情報番組でのMV初披露、CD発売日にサブスク含めた楽曲配信の開始・MV公開、公開収録を行ったNHKの音楽番組でのライブ映像の披露と続いて、ライブでのお披露目はその後だった。

 こうした方法が何を意図しているかはわからない。
 けれど、「群青」という楽曲はライブという一回性の媒体に囚われず、現代の多様な複製技術環境のなかのメディアから受け取ってほしい、そんなメッセージを感じてみている。

 ライブ主体の活動では、観衆はどうしてもそのライブの一回性に引きずられがちだ。けれど、その一回性のなかには、ライブという場自体がもつ一回性のほかに、その楽曲に向き合う「わたし」のなかに生まれてくる一回切りの感情というものがある。
 例えばCDやラジオで同じ曲を聴いていても、意識せずにではあるにしても、毎度一回切りの感情が自らのうちに立ち現れているはず。そうした自分のなかに立ち現れている一回性の方を、ライブの一回性は覆いかくしてしまいがちだ。

 音楽なら同じ曲を2回聴くことを不思議がられることはほぼないけれど、映画や本だと同じものをもう一度みて(読んで)いることを不思議がる人が一定数いる。「それ、前にもみた(読んだ)よね」というのは、その映画や本(そのほか絵画なども)をいわば情報として受け取っているからであろうし、情報としてだけなら1回受け取れば十分なので、同じものを2回受け取る必要はない(いつもほとんど忘れてしまうことはおいておくとして)。
 そしてメディアで容易に複製されるのも、あくまでその作品などの情報としての側面である。その映画や本により自分のなかに立ちのぼる感情は複製されるものではなく、だからどんなに複製技術が発達しようと、常に一回切りの出会いがそこにある、はず。

 ただ、このことについては、つい忘れがちであって。
 ライブで音楽に出会っていると、そのライブという一回性に囚われて、毎回その楽曲に出会うときに立ちあがる自らのなかの一回切りの感情に気づかずに通り過ぎてしまう。そんな一面はあるように思う。

 今回のタイトル未定「群青」がメディア先行でリリースされたということは、たくさんの人が同じ曲を、録音され複製された作品として、同じ曲を聴くということ。
 ライブが主ではなく、円盤としての作品が主、とまでは言わないけれど、まずは円盤やメディアでその作品に触れ、興味を持って、ライブへ足を運んでもらう、という新しい間口を開くということ。
 それは(一般的な音楽との出会い方としては、むしろ当たり前すぎるのではあるけれど)、ライブ主体の活動を積み重ねてきたタイトル未定の新しい展開の方法ではないかと思う。

 そして、そのように出会えた楽曲は、ライブ主体のなかで出会った楽曲とは異なったつき合い方が生まれるのかな。ファン層の広がりや多様性も含めてそんなことを感じてもいる。

 そして、そのうえで、ライブがある。
 2024年3月9日のアイドライズでライブ初披露された「群青」も「春霞」も、O-EAST全体を包み込むように、どれほど声を、歌を届けたいか、その想いがメンバーからあふれていたし、それが届いていることが実感できたのもライブでしか得られない感覚だった。

 そしてまた、ライブならではの場のあり方があることをはっきりと示したのは、2024年2月4日にZepp Sapporoで行われたタイトル未定ワンマンライブ『SPOTLIGHT』だったと思う。

 ライブのはじまりは「最適解」から。
 もともとは2022年7月(TIF2022のメインステージ争奪戦の直前の時期)に札幌ファクトリーホールで行われた前人未踏ツアーファイナルでバックダンサーとして出演した少女に仮託した物語である。少女がアイドルに出会い、憧れ、アイドルになっていくという物語。
 けれど、このライブでは、冒頭にメンバー自身が少女であったときの夢が語られ(その夢は、今の現実にとても近くて、川本空ちゃんの夢(リラックマ?)が語られなかったら少女の頃の夢とは気づかなかったかも知れないくらい)、つまり、そうした少女たちが集まり、夢を叶えてきている今が示される。
 続いての「踏切」はタイトル未定のデビュー曲であり、「未来に名前はまだない」彼女たちが歩き出したことを示すことに他ならない。そこが始まりの地点なのだ。

 続いての「ないしょのはなし」がこのライブの性格を見事に伝えていた、と思う。ここから観衆は、タイトル未定のなかに招かれている。そんな風に感じた。
 このワンマンライブも通常のライブの文脈に沿った構成で作られているから抵抗なく受け入れられているけれど、「ないしょのはなし」を聞くこととは、タイトル未定のなかにある、ある場所が明け渡され、そこに招かれているような感覚。
 そこでは演者と観衆、アイドルとファン、といった向かい合ったものはなく、そして、よく語られる「一体感」でもない何かがある。
 それは同時に、観ている側もみずからのうちにある場所をタイトル未定に明け渡していることでもあるように思う。

 こうした場はメディアを通して出会った音楽とでは生まれようのないもの。こうした場を生み出すことはライブでしかできないことてあるように思う。

 そのような場が生まれたあとでは、「花」はいつもの「花」ではない。
 きっとこれは客体として見ていた花ではなくなっていて、タイトル未定の内に咲く花なのだろうし、そのなかに誘われた観衆も、自らのうちに北海道の風や匂いがいっぱいになっていく、そのようなことが起こっていたのではないかと思う。

 そこからは新曲「記念日」初披露があったりして、ワンマンライブらしい構成が続くが、ライブ後半のMC後からの「溺れる」「薄明光線」「水流」「灯火」「僕ら」「鼓動」と続いた怒涛の6曲では、これはタイトル未定の核心に触れているものだと感じた。ガシラップなど構成も見事だったが、楽曲群としてここが今の最奥部にある、タイトル未定をタイトル未定として有らしめているところであるのだろう。
 「花」にせよ今回の「群青」にせよ、こうした核が秘められてあるからこそ、羽ばたき広がっていけるように思う。

 続いては「青春群像」だけど、ここでは落ちサビを一緒に歌おう、ということでスクリーンに歌詞が映し出され、みんなでそれを歌う練習もする。曲が始まって、その箇所までくると演奏がいったん止まってシングアロングとなったが、こうした演出も、観衆みんなで青春群像、みんながタイトル未定なんだよ、というメッセージなんだなあ。などと思っていたら...
「またここで会おう」とみんなで歌い切ったとき、阿部葉菜ちゃんがうれしそうに「約束だからね!」というのには「やられた!」と思ったけど笑、でも、いつもまたここで会おうと呼んでくれている葉菜ちゃんに約束できたことは、心地よかった。

 続く「にたものどうし」で、ここまで来れたことを確認しあって、ここらから観衆はタイトル未定のなかから(一般的な言い方をすればワンマンライブの世界から)もとの世界に戻っていく、そのときを感じる。

 そしてライブの締めは「黎明」。
 MCなどはその前に全て終えていたから、「黎明」の曲が終わるとともに、無音となった地点にみんなが放り出される。そんな演出のはずだったのだと思う。
 そこは、これから黎明であり、夜明けはまだ来ていない、つまりはこれから創られる物語であることが示される。それが少女の夢から始まったこのワンマンライブを通じて、みんなでたどり着いた場所でもある。

 そこは、何者でもない、地点。

 けれど、何者でもないということは、何者にでもなれるということ。

 フロアから発動されたアンコールが予定にはない(予定は未定だ)アンコールを呼んで、圧倒的な感動の「鼓動」が響き渡ったのも、このワンマンライブがもたらした一つの美しい表れだったと思う。

 これからの物語は、どんなだろうか。

「群青」はその一つの道標になるのだろう。そんな予感がしている。


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