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Source(ソース)でないコトがわかる喜び

我々、令三社はソース原理(Source principle)について研究しています。

音声解説も始めましたので、仕事や家事のお供に、聴きながらどうぞ。


そんなソース原理ですが、人は誰しも自分の人生ソースSourceと繋がっている。
という大前提があります。
ここで言う人生ソースとは、医者になるとかいうような仕事の手段ではなく、世の中に愛をもって価値を創造的に出現させるアイデアを実現していく流れを言います。

いやいや、今日のランチですら主体的に決められないのに、自分の人生が何に呼ばれているか?なんて分からないよ!
と、そんな声が聞こえてきそうです。その感覚は正常でしょう。
自分の人生が何に呼ばれているか?をクリアに感じ取れる人は稀です。
ソース役は半歩先しか分からないのが正常なのです。常に五里霧中だと言えます。しかし、なんとなくこっちの方向だ!というのは何故か不思議と分かるのです。

だからこそ、他人と話をする事が重要です。
特に、人生ソースが見えつつある人と話をするコトは非常に有益です。
なぜなら、他人のソースに関わる話を聞いた時に
「それに私は興味湧かないな〜」
とか
「その分野なら自分の興味ある分野に近いかも、けど、ちょっとだけズレてる感じがする」
というように、自分の人生ソースを探す手がかりになるからです。

ちょっとざっくりした言い方になってしまいますが……。
消去法でも前進していると言えるのです。これは自分の人生ソースではなかった。よし!膨大な可能性の中から一つ消えたぞ。
という具合に。
なので、何かのイニシアチブがあって、そこで自分がソースではないと気づいた時に落胆する必要は全然ないのです。

ちょっと我々人類は、ここ100年ぐらいの工業化社会の中で誤った刷り込みに支配されているような印象を受けます。
ソースは部長・課長というような役職ではないのです。
部長・課長などという役職は、工業化社会で一気にスケールした概念です。特徴として、その役職を手に入れるとその役職に応じた力・権力が使えるというものです。
自分がソースではないと分かった時、この工業化社会の概念で見てしまうと非常に落胆するでしょう。なぜなら、ソースという役職が手に入らなかったので。
でも、そうではないのです。そのイニシアチブのソースじゃないとしても、あなたはソースなのです。なので、あなたの内側にはすでに全部があるのです。

その内側にあるものを「愛」で起動させてください。
愛で起動させると真我の力を扱えるようになります。
で起動させると(起動しないのですが起動しているように錯覚する)自我の力に振り回されてしまいます。

禍福は糾える縄の如し
目の前の現実世界で何かを失った(ように見えても)、あなたの完全性は何も揺るぎません。
目の前の現実は、例えるならキャンバスでしかないのです。キャンバスは何度でも取り替えて納得行く絵を描けば良いのです。
しかし、肝心な画家であるあなた自身が、自分を喪失してしまったら意味がありません。

我々は人生をどういうものにすべきなのでしょうか?
かけがえのない、一度きりの、鮮やかで、美しく、混沌としたこの世界を。

そう考えると、ソースではない事が分かった瞬間も、大いなる喜びに満ち溢れた瞬間に見えませんか?

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