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自分の輪郭に、無意識のエッジに近づいてみる

言葉とは便利なものです。
自分の考えを他人に伝えることができます。しかし、便利であるという事は汎用性があるという事。汎用性を優先したがために、細かいニュアンスや意図は欠落する定めにあります。

例えば
登山のエキスパートである友人Aさんに、山登りに連れて行ってもらったとします。二人で登山をし、山頂まで行って、麓まで降りてきました。その時、こんな会話があることでしょう。

私「いや〜登山初めてだったけど良かったです。最高でした。」
A「うん最高だったね。良かったね〜」

二人は大筋では合意しています。
しかし、何が良かったのか?は微妙にズレていて当然です。
良かった。という言語を優先したために、細かいニュアンスは欠落するのです。

これは良い悪いではなく、そのような機能なのです。

なので、言葉で人生の合意形成を図っていく事は、あまり意味がないと言えます。
10時に駅集合ね!という単純な合意形成であれば言葉は機能します。
しかし、何のために生きるのか?どうして働くのか?どうして我々は結婚するのか?というような、人生の合意形成においては言葉は不便です。

経営理念などにおいても「楽しく生きる」というような合意形成は意味を持ちません。
ある人にとって楽しさは真剣さの先にあるもので、ある人にとっては趣味が楽しさの象徴であったりするからです。

決して間違えてほしくないのは、言葉は意味がないという訳ではないという事です。むしろ、自分の輪郭に触ることができる貴重なツールでもあります。


私の例(自分の輪郭)でお話します。

「貧困」という言葉から連想するものは何でしょうか?
私は「貧困」という言葉から、魂の貧困を連想します。アフリカなどの発展途上国における「貧困」は意識の中では薄いのです。

何のために働いているのか分からず、家賃を支払うため、食費のために働いている。幸せとは何か考えるのは青臭いと思っていて、仕事の後のお酒で解放感を味わうのが唯一の幸せ。けれども、年をとってきて、俺ってこのままで良いのだろうか?という漫然とした不安のようなものがある。仕事を辞めてもやりたい事はない。経済的不安があるだけだ。しかし、何か満たされない。

こんな状況を魂の貧困だと思っています。
私の輪郭は、物質的な貧困よりも精神的な貧困に重心が置かれているという訳です。

「貧困」という言葉ひとつ取ってみても、大筋では合意できても細かいニュアンスは異なります。
その細かいニュアンスを大切にする事こそ、自分を、他人を尊重する事に他なりません。なぜ自分はこのようなイメージを持っているのだろう?と、言葉の輪郭を通じて、自分の無意識のエッジに触れてみるのはいかがでしょう?と言いたいわけです。


これから世の中はどんどんアートになっていきます。
自分の生き方をアートに表現する時代です。

自分のキャンバスの端はどのようなものなのでしょうか?

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