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神の領域・他人の領域・自分の領域

不安になりたければ将来のことを考えてください


日本における戦後の復興は目覚ましく、日々、暮らしは豊かになっていった。祖父や祖母から聞いた戦時中の暮らしは制限が多くかかり、この茨城県での暮らしも苦しかったそうだ。農家なのに食べるものがない、という状況。未だに、食べきれないほどのご馳走を食卓に載せる事こそ豊かさの象徴、と考えるご年配者は多いだろう。

そんな中、戦後の日本の復興は始まった。
頑張れば頑張るほど、暮らしは、社会は良くなった。
食べるものに困らなくなり、家電製品の出現で家事は劇的に効率化され、自動車が手に入り行動の自由も謳歌できた。職場環境が劣悪でも、代わりに手に入るものが大きかったのだ。
この過程で、以下のような人生訓を口にする人が増えたように思う。

コツコツ頑張れば人生はうまくいく
自分の頭(偏差値)が良ければ人生はうまくいく
嫌なことでも我慢すればいつか報われる
将来のビジョンを明確に決め頑張れば人生はうまくいく
成功の第一歩は夢を描く事だ

このような人生訓は、戦後復興の時代だからこそ納得感がある言葉だと言えます。それが証拠に、今(2022年)の時代において、この言葉に響き共感する人は少ないでしょう。

戦後復興の時代においても、物質的な豊かさは享受できましたが、精神的な豊かさも同時に手に入れる事ができていたか?は甚だ疑問だ。
将来のために今を犠牲にする生き方は精神的豊かさから縁遠い。


精神的豊かさについて考えてみる時に
・神の領域
・他人の領域
・自分の領域
と分けてみると思考の緒編になるでしょう。

神の領域とは、明日は晴れてほしいな〜とか、隕石が地球に衝突して人類が滅亡する予言が出ているんだって〜というイメージで差し支えありません。

他人の領域とは、自分と同じようにその人も、かけがえのない一度きりの人生を大切に過ごしているのだ。という前提で見ることで腑に落ちるでしょう。自分がふと思うように、その人もインスピレーションで行動します。自分がなぜだか分からないけどそう思うように、その人も根拠がなくてもそう思います。
なのに、なぜ我々は他人の領域をコントロールしようとするのでしょうか?自分たちもそうだったでしょう?
親や上司などから一方的に指示・コントロールされたとき、身体が嫌だと反応しましたよね?

自分の領域とは、文字通り自分の領域です。
我々は、この自分の領域だけしかコントロールできないのです。
あの娘に嫌われたらどうしよう?
得意先に切られて仕事が無くなったらどうしよう?
このような不安において、他人の領域にフォーカスすると物事は拗れていきます。
あの娘に好かれるような事だけ考える
得意先を接待しまくってなんとか関係を維持しようとする
他人の領域にフォーカスすると、自分の領域が犠牲になります。結果、自分が自分でなくなってしまうのです。仮面をつける、装う、という、本来の自分との分離が人生をかけて始まってしまうのです。とても苦しい時代です。


ちょっと脱線
青野さんは色々知っていて凄いですね。と言われたのですが、凄い訳ではありません。私がnoteに記載している事は全部実体験です。なので、相当に業が深い(笑)
今まで、私は他人を親を傷つけまくってきました。なのに本人にはまるでその自覚がない。他人を道具のように見立てて、自分の人生が有利になるように仕組んできた。なのに、いつまでたっても人生は好転しない。もっと人生を良くするためには相手を殺すしかない。
そう思ったとき、ハタと目が冷めました。俺なにやってんだろう?と。
そこから、自ら学び、素直に他人の話を聞いてみようと思いました。自分のやり方だとどんどん人生は悪くなります。なので、俺はこう思うんだけど…という気持ちを一歩引いて冷静に観察しました。
すると、人生は緩やかに好転しだしたのです。2017年の事でした。


閑話休題
なので、自分の領域について学ぶと良いです。
良い成績とって良い大学に行く、良い企業に就職する。という、学校教育における学びは、外側に褒賞がぶら下がっています。外側にあるので自分の領域ではありません。

そうではなく、自分の領域のために学ぶのです。
自分がより自由になるために学ぶのです。
外側の褒賞に意識がいきすぎると過度に不安になります。
自分の領域に意識がいくと、何が起こっても動じない世界観になります。なぜなら、あなたの内側には全てが揃っているのだから。


不安になりたければ将来のことを考えてください

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