#下書き再生工場 「耳先生」文体あそび
耳先生は冷蔵庫の向こう側にいらっしった。
小さな冷蔵庫の、奥のものを手に取ろうとします時、床にしゃがみこんで、思い切り手を伸ばさなくてはなりません。そうやって、あら、あら、手が届きませんわ、というふうに見せかけて、わたくしは前転します。すると、冷蔵庫の奥の壁が抜けるのです。冷蔵庫の壁は、大人の方が思っているより、ずっとずっと薄いのです。体育の授業の、マット運動で習いましたように、わたくしは、冷蔵庫のなかに転がり込んで、膝を揃えて、勢いよく前転しました。思いっきり両膝を伸ばして、冷蔵庫の壁を蹴飛ばして破るのでございます。
両足が地面についた時、私は隣の部屋に移動できるのでございました。隣? いいえ、うちは角部屋ですから、こちらにお隣さんはいらっしゃらないはずですけれど。……って、お母さまならおっしゃるかもしれません。でも、わたくしは別に、目に見えなくてもよくってよ。「そう。おっしゃる通りです。そんなことはたいした問題じゃございませんからね」と、耳先生だっておっしゃるはずだと、わたくしは信じているのでございます。この世界には見えないものの方が多いのだから。
うちの部屋とお隣さんの家の間には、非常階段がございます。ですから冷蔵庫の壁を蹴破りますといつも、この非常階段の踊り場にごろんと着地することになるのでございました。わたくしは階段の踊り場に立ち、綺麗な正方形に抜けた薄い冷蔵庫の壁を拾って、よいしょ、と、冷蔵庫の壁を元の場所にはめこむのでございます。非常階段は全部が古くて灰色。でも、どこからか差し込む夕陽が、ここを夢のような薔薇色に満たしてくれるのでございました。壁に、わたくしが今はめこんだばかりの、冷蔵庫の背中だけが、白く浮かび上がって、だから、ほら、コンクリートの壁より、たくさん、薔薇色を吸収して、綺麗でしてよ。
あ、聞こえる。
わたくしは目の前に続く非常階段を見上げました。ショパンの「英雄ポロネーズ」が、非常階段に響いてまいります。
「耳先生!」
思わず声をあげてしまいました。非常階段に、わたくしの声が響いて、非常階段に満ちた薔薇色の光が、ざあざあざあざあ、波打ちました。溺れそう。光に溺れそう。私、この薔薇色を窒息するまで、飲み込んでしまって、それで死ぬなら、それは世界一素敵なことかもしれない。なんてことを、本当に本当に考えたのでございました。級友のみなさんは「お腹が空いて死ぬのはいや」とか「息が苦しくて死ぬのはいや」とか、「じゃあ誰かに刺されるのだったらいいのかしら」とか「交通事故でぱっと死ぬのがいいわ」「病気か寿命が平凡でいちばん」などとおっしゃいます。そうね、私たち生まれたばかりだから、死の方が近いのかもしれないわ。わたくしは笑って「どれがいいかしらん」と思う。思うだけ。いつも。ですから今度その話になったら、堂々と胸を張ってこう言おうと、たった今胸に決めました。冷蔵庫に向かって前転して、壁を破ったら、向こう側から壁をはめこみ直して、非常階段で、耳先生の「英雄ポロネーズ」を聴きながら、夕日に溺れるの。ね、素敵でしょう。どう思って?
「耳先生。後生ですから」
私はもう一度、耳先生のお名前をお呼びしました。薔薇の香りがしないことの方が不思議なくらいに、花びらの一枚も落ちていないことが不自然なくらいに、非常階段の薔薇色が濃密になってゆきます。でも、窓はどこにもございません。
「耳先生、どちらにいらっしゃるの!」
わたくしは「英雄ポロネーズ」の聞こえる方へ、非常階段を上がっていく。違いました。下ったのです。いいえ。いいえ。違う。上がったのですのよ。もうわからない。わからない。ぜんぶわからなくなっちゃった。
出口、私がはめこんだ、冷蔵庫の壁。あの正方形を、非常階段のどこかにはめこんだはずですのに、もうそれがどこにあるのか、思い出すことは叶いません。
誰かがボツにした案を書くという企画です!
「音楽が奏でる耳先生への階段」という案を再生しました。
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