#下書き再生工場 音楽が奏でる耳先生への階段

誰かがボツにした下書きを再生するという企画。
面白そう。
見ていたら「どういう意味?」と思うワードがあった。
「音楽が奏でる耳先生への階段」。
??????
(どなたの没アイディアだ?)
このワードが持つ「どういう意味?」を小説で表現してみたいと思った。
ミステリアスで魅力的なのでハードル高い。
10人中9人が「??????」ってなって1人が「良い!」って思ってくれたら1番嬉しいな~
以下、即興で書いた小説(?)です。


耳先生は冷蔵庫の向こう側にいる。
小さな冷蔵庫の、奥のものを手に取ろうとする時、床にしゃがみこんで、思い切り手を伸ばさなくちゃならない。そうやって、あれ、あれ、手が届かないよ、というふりをして、前転をしてみる。すると、冷蔵庫の奥の壁が抜ける。冷蔵庫の壁は、大人が思っているよりずっと薄いのだ。体育の授業の、マット運動で習ったように、私は、冷蔵庫のなかに転がり込んで、膝を揃えて、勢いよく前転する。思いっきり両膝を伸ばして、冷蔵庫の壁を蹴飛ばして、ぶち破るのだ。
両足が地面についた時、私は隣の部屋に移動できる。隣? うちは角部屋だから、こっちにお隣さんはいないはずだけど。……って、パパやママなら言うかもしれない。でも別に目に見えなくてもいいの。「そう。その通り。そんなことはたいした問題じゃないよ」と、耳先生だって言うと思う。この世界には見えないものの方が多いのだから。
うちの部屋とお隣さんの家の間には、非常階段がある。だから冷蔵庫の壁をぶち破るといつも、この非常階段の踊り場にごろんと着地することになるのだった。私は階段の踊り場に立ち、綺麗な正方形に抜けた薄い冷蔵庫の壁を拾って、よいしょ、って、冷蔵庫の壁を元の場所にはめこんだ。非常階段は全部が古くて灰色だけど、どこからか差し込む夕陽が、ここを夢のような薔薇色に満たしてくれる。壁に、私が今はめこんだばかりの、冷蔵庫の背中だけが、白く浮かび上がって、だから、ほら、コンクリートの壁より、たくさん、薔薇色を吸収して、綺麗です。
あ、聞こえる。
はっと気付いて、私は非常階段の上方を見上げた。ショパンの「英雄ポロネーズ」だ。
「耳先生!」
思わず叫んだ。非常階段に、私の声が響いて、非常階段に満ちた薔薇色の光が、ざあざあざあざあ、波打った。溺れそう。光に溺れそう。私、この薔薇色を窒息するまで、飲み込んでしまって、それで死ぬなら、それは世界一素敵なことかもしれない。と思った。学校のみんなは「お腹が空いて死ぬのはいや」とか「息が苦しくて死ぬのはいや」とか、「じゃあ誰かに刺されるのだったらいいの?」とか「交通事故がいいんじゃない?」「えー病気か寿命がいちばんよくない?」とか話す。そっか、私たち生まれたばかりだから、死の方が近いんだね。私は笑って「えーどれがいいか決められない」と言う。いつも。だから今度その話になったら、こう言おうと思うの。冷蔵庫に向かって前転して、壁をぶち破ったら、向こう側から壁をはめこみ直して、非常階段で、「英雄ポロネーズ」を聴きながら、夕日に溺れて死ぬの。ね、どう思う?
「耳先生! お願い、聞いて!」
私はもう一度叫んだ。薔薇の香りがしないことの方が不思議なくらいに、花びらの一枚も落ちていないことが不自然なくらいに、非常階段の薔薇色が濃密になっていく。でも、窓はどこにもなかった。
「耳先生、どこなの!」
私は「英雄ポロネーズ」の聞こえる方へ、非常階段を上がっていく。間違えた。下ったのだ。違う。違う。違う。上がったの。もうわからない。わからない。ぜんぶわからなくなっちゃった。
出口、私がはめこんだ、冷蔵庫の壁。あの正方形を、非常階段のどこかにはめこんだのに、もうそれがどこにあるのか、思い出せない。

#下書き再生工場

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