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父娘

小学校にあがるくらいまでの父が大好きだった。

よく自転車に乗せられて川や田畑の広がる田舎道を走った。
岩山や公園に連れて行ってもらったり、
みたらしだんごをほおばっては、
たれまみれになる口のまわりを、
お決まりのように苦笑いしながら
ポケットからハンカチを出してぬぐってくれた。
家ではあぐらをかいた父の上に
すっぽりとはまるように座ってテレビを見るのが
とても心地よいひと時だった。

きっと私が物心つく頃には亡くなっていた母の分も
父が愛情を注いでくれたのだろう。

それまでの紆余曲折は中略して
小学校に上がる頃、父が再婚した。

再婚後、父と母と祖母はよくケンカをした。
大正生まれの戦争未亡人でしっかりものの祖母と
兄弟が多く気が強い母は、すぐに定番の嫁姑問題を展開した。

父は戦後の厳しい世に、母(祖母)に厳格に育てられた。
そのことが影響しているのか、
怒りに触れるとよくキレた。
姑の件もあり、父と母のケンカも頻発し、
恥ずかしいほどの怒声が近所に響き渡った。

当時、毎年小学校で家庭についてのアンケートがあり、
「家庭の中は明るいですか?」みたいな質問に
いつも背徳感をもって「はい」と答えていたことを思い出す。

世間は高度成長期、
休みは麻雀・ゴルフ・カラオケの大手企業戦士となった父への思いは
引く波のように静かに消え去り、
思春期には嫌悪にさえ変わっていった。
嫌悪は長い間の父と娘の軋轢になった。

父は私の思いを理解することもなく
ただ扱い辛い娘だと手を焼いていたに違いない。

家出するように大学で家を離れたあとも
私が困ったときは、いつも助けてくれた。
当たり前のように。
そういう時だけ父に甘える自分のずるさは
自分への嫌悪に向いた。

少しは私も大人になり、
少しはお世話もできたけれど、
心優しい娘ではなかった。
言葉で父を傷つけた。
軋轢は、最後まで拭い去ることはできなかった。
どうすることもできなかった事実は、
父が亡くなって1年たった今も、これからも後悔の念として
私がずっと背負っていく。

本をたくさん読んでいた父。
とくに歴史ものが好きだった父。
もっと父と話しをすればよかった。
仕事で苦労したこと。頑張ったこと。
青春時代の話。
恋愛の話。
母のこと。
私について。

大好きだった頃の父をずっと求めていたんだろうな。
隠れファザコン。
生きることは難しいですね。

私も父のように
自分の人生を全うできるかな。

5月14日、今日は父の1周忌。
父の愛した家の庭は新緑でまぶしいです。







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