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ループする

冬に入りはじめの12月の厦門を離れて、いつのまにか4ヶ月。あっというまに半年すぎてしまうだろう。

冷蔵庫のなかには、冷凍粽と特売餃子などがあり、みんな電気代が切れた時点で冷蔵庫が止まり、カオスな状態になっているにちがいない(大学寮の部屋のなかに冷蔵庫はあり、その冷蔵庫を動かす電気代は、大学の食堂前の黒いボックスで課金しないといけないという複雑な入れ子構造)。

記憶や感覚を冷凍したり解凍したり、じぶんの意思でできればいいのに、と思う。実際には、意思と離れたところで急速冷凍されていたり、急に溶け出してきたりしてあたふたするのだ。

亜熱帯の街路は遠く、潮風も遠い京都の外れで閉塞感にあふれる春をむかえる。どこもかしこも行き詰まったり、閉じこもるほかなくなったりしている。

一ヶ月後の町を想像はしない。それは、このまえ書ききった原稿でさんざんやり、ちゃんと月末に解凍される。いまは旅に出れないということで、旅の記憶をちょっとずつ解凍することにする。

いつもなにかあると引っ張り出して一時期はバイブルのように引用しまくったベンヤミンの『暴力批判論』(岩波文庫)がどこかにいってしまってでてこない。いま読みたいのは、「ベルリンの幼年時代」。故郷を遠く離れて過ごす日々の中で郷愁へのワクチンとして書いた(うろおぼえ、間違いなきよう原点にあたることをおすすめする)、という文章のなかで、降りしきる雪と、町の色彩が記憶にかすかに残る。あるいは、エッセイ「一方通行路」。軽快な響き、軽快な記憶の処理のしかた、レトリックとユーモアのちょうどいいからみあい。

ああ、読めないものが懐かしいなんて、どうかしている。ネットで買えばいい? どうも、あの書き込みと付箋でいっぱいになったぼろぼろの文庫でないとだめな気がする。

そんなふうに、ものには魔力が、場所には磁力が宿っているのだと感じることがたびたびある。生活のなかでデジタルへの置き換えがどんどん進み、今回の事態の急速な変化のなかで、ほとんど不回避的に授業配信とか、チャット飲み会とかが広まり、じぶんもある程度適応しつつやってはいるのだけど、オーウェルが『1984』で書いたところの代用コーヒーは、アナログ時代を体に刻みつけたわたくしには、やっぱり代用コーヒーなんだよね、と、つい旅に出たくなってしまうのだった。

とりとめなく文章ははじめにもどる。あしたは、もうすこしめまいを感じることなく、いまを認識できるだろうか。

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