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凛とした
長雨が続いたあとの森に分け入っていく。歩きなれた左京区の小高い山とも小さな森ともいえる木々の間を歩く。木漏れ日はきもちよく蒸気がしゅわしゅわと空に昇っていく様子をながめる。
ごつごつとしたメロンパンのようなキクバナイグチが斜面から顔を出し、テングタケが景気よく傘を広げる。アリの巣になってしまったヤマドリタケモドキ、名も知れぬ紫のイグチ、やはり大きなパンみたいなニセアシベニイグチ。
それだけ名前がついて分類されているということに素朴に驚きつつ、それ以上に、ただ雨がふるだけで、そして一陣の風が吹き抜けていくだけで、胞子を広げ花開いていく生命の造形にため息が出る。
夏が来たのだ。
家にこもってすごした春が過ぎて、いつのまにかバスに乗り、町に出て、買い物したり、ときには酔いつぶれたり、穴倉のようなスタジオで音楽をする生活に戻っている。
個人史的には(世界的にみても)圧倒的な変動の時期にあっても、森ときのこはほとんど変わらない。
31番のバスに乗って、部屋に帰り、きのこ図鑑をながめながら、数か月まえに中国の学生から届いた作文のひとつをふと思い出した。
とても文章のうまい、林偉真さんというその学生は、部屋から出ることのできない長い時間のなかで、屋根に上がって見た夕日が心の雲を散らしていったようだ、と書いた。
苦しい時間のなかに、ふっと風が吹き抜けていくような、そんな感じが夕焼けの描写のなかににじんだ、とてもいい文章だった。
そんなわけでまた本人に許可をとり、紹介する。
黒い雲が散った日 林偉真
雨は、もう何日間も続いていた。気持ちはこの空のように暗く、黒い雲に覆われていた。
楽しみにしていた正月だったが、全然雰囲気がなかった。私は小さな町に住んでいるから、花火は禁止されていない。夜になると、花火が空に咲いた。しかし、昔の賑やかさとは比べ物にならなかった。昼間はもちろん、世界は静止したように静かだった。雨が梢に降り、地上に落ちる音だけが聞こえた。
私は晴れが大好きなので、一日中くさくさしていた。
友達はほとんどユーモアのある人だ。気分が悪いと、彼らと会うとすぐに楽しくなる。しかし、新型コロナウイルスのせいで、友達にも会えなかった。
そのまま時間が過ぎ、夕食の時間がやってきた。私は窓に向かって座った。
突然、窓の外の遠くに明るい光が現われた。久しぶりに太陽が出てきたかと思って、すぐに屋上に上がって写真を撮る準備をした。
雨はもうやんだ。山と雲の境目に、金色の光がゆっくりと広がった。三十分後に、雲が散り、夕日が山頂にきらきらと輝いていた。空の上半分は澄み切った青、下半分は暖かいオレンジ色で、散っていない雲も色づいていた。
その瞬間、心を覆っていたあの雲も突然散っていき、このひっそりとしたよい天気が私の煩悶をそっと打ち開いた。
立ち止まらないといけない、と小走りですぎる日々のなか思う。立ち止まって見えるものを、まずしっかりと見なければ。
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