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スカーレットと咲久子

いまさらながら『風と共に去りぬ』を見たりして、スカーレット・オハラのいきあたりばったりな、しかしいつのまにか道を切り開いていく様子などを見ていて、記憶の片隅にあったマンガの人物の面影が脳裏を横切る。ああ、これは市川ジュン『陽の末裔』(1987-1989)の南部咲久子なのだと、いまさらながら思いいたる。

大正中期、没落した南部家の令嬢咲久子は唯一無二の親友石上卯乃と一緒に、いつか南部家の土地を買い戻してやるという野望をいだいて東京の紡績工場にほとんど身売り同然で働きに出る。美貌と利発さとスカーレットのような衝動で突き進む咲久子はあっというまに資産家の養女としてブルジョアへの道を突き進み、一方もうひとりの主人公である卯乃は、平塚らいてうの『青鞜』に出会ったり、紡績工場で労働運動なんかはじめたりして、泥臭い道を進むが、やがて婦人記者として自立の道を切り開いていく。

まったく状況はかわってもふたりの友情は途切れることなく続き、人生は何度も何度も交差し、はかなく去ったり、死んでいく男たちを尻目に、太陽の子どもたちの末裔として輝ける生を送っていく――。

たしか、そんな話だったとおもう。 

これは思いつきの書きつけなので、『陽の末裔』が実際に『風と共に去りぬ』をモデルにしているかどうかは確かめていないのだけど、このふたつの作品をならべて、フェミニスト文学批評的に読むと、なかなかおもしろい対比が浮かび上がってくる(もしかしたらそういう論文もあるだろうか)。

スカーレットが実は身近に居続けたメラニーという「親友」に気づくことがないまま、ひとり衛星のように男たちのまわりを回り続けることを余儀なくされているのに対して(逆の解釈ももちろん可能だともおもうが)、南部咲久子は最初から卯乃以外はあまり見ていない。信頼していない。男も恋愛も、南部家の復興という目的には必要なのだけど、根底には卯乃とのつながりがあり、それで人間はもう満ち足りているのだ。

咲久子よりもはるかに人間的で、多くの友だちを持つ卯乃のほうは(メラニーに非常に似ている)仕事でも恋愛でも堅実で苦労しながら確かなものを手に入れたように見えて、しかし男たちは戦争で死んでいき、何回も何回も咲久子とのつながりに立ち帰る。無茶苦茶自分勝手な咲久子を徹底して肯定する。とにかくシスターフッドは力強いのである。

あらためて『陽の末裔』で描かれたシスターフッドから『風と共に去りぬ』を逆照射してみると、スカーレットの不安げな様子、いたたまれない激情、居場所のなさは、徹底した男社会のなかで身近な親友を見つけることができなかった孤独なのではないかと、思えてくる。

「Tomorrow is another day」はいつまでたっても訪れないかも知れない「あした」であって、それよりは「元始太陽だった」というファンタジーのほうがいまを生きる力になる気がする。

少なくともわたしは、『陽の末裔』ではじめて『青鞜』を知ったのだと、思い出したところで、この書きつけは終わるのである。

それにしても、深草子爵なんかまんまレット・バトラーやないか。ちがうかな。


 

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