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どうして見せびらかさずには生きていけないんだろう
Netflixで「セレブリティ」という韓国ドラマを観た。大雑把に説明すれば、ごく平凡に生きていたひとりの女性が、インフルエンサーとして成り上がっていくストーリーだ。
作中のトップインフルエンサーたちはブランド物に囲まれて、キラッキラなセレブ生活を送っている、かのように見える。内情がどうであれ、よりたくさんの羨ましいを集めたものが勝ち。
彼女たちを筆頭に、登場人物たちが皆、誰ひとりしあわせそうじゃないのが印象的だった。
「あんたたちは、どうして見せびらかさずに生きていけないの?!」
トップインフルエンサーに成り上がった主人公が、アンチの女性からそんなセリフを投げかけられるシーンがあった。(正確なセリフはうろ覚えですが)
どうしてだろう。どうして見せびらかさずには生きていけないんだろう。
わたしは過去に苦い経験があって、不特定のひとにあからさまに私生活を公開したり、個人が特定できるような発信はできるだけ避けている。Instagramもやってない。でも、だれかに見せびらかしたい、その気持ちはやっぱりわかってしまう。
素敵なものを手に入れたとき、素敵な場所にお出かけしたとき、心のどこかで「知られたい」と思ってしまう。こんなにも充実しているわたしを知られたい。
現にこうやって、だれかに読まれるための文章を書いている。読まれたい。共感されたい。認められたい。その気持ちは痛いほどわかってしまう。
だけど逆の立場に立ったとき、心が波打ってしまうのはどうしてだろう。心の状態が思わしくないときなんかは、目の前のことに手がつけられなくなってしまうほど。
だれかの充実した毎日は、わたしの毎日に指一本だって影響しない。しあわせは椅子取りゲームなんかじゃなくて、競う必要も比べる必要もまったくない。わかってる。
そんなことをつらつらと考えていて、前に読んだ西加奈子さんの闘病生活を綴ったノンフィクション作品「くもをさがす」の一節を思い出した。
最近、インターネットで様々な「美しい話」を見かける。(中略)インターネットの発達のおかげだろう。世界中に散らばっていた美しい瞬間に、ワンクリックで立ち会えるようになった。私はその進化に、心から感謝している。そして同時に、こうも思うのだ。
こんなに美しい話を、気前よく私たちに分け与えてくれなくていいのに。
それはあなたの、あなただけの美しい瞬間ではないのか。
(中略)
私は、私に起こった美しい瞬間を、私だけのものにして、死にたい。いつか棺を覗き込んでくれたあなたが、いつか私の訃報をどこかで知るあなたが、そして、私の死に全く関与せずにどこかで生きるあなたが知らない、私だけの美しさを孕んで、私は焼かれるのだ。
あらためて読み返してみて、なんて強い文章だろうと思う。ほんとうに美しい瞬間は、だれかに見せびらかす必要なんかない。わたしは、わたしだけの美しい瞬間を、どれだけ抱えて死ねるだろうか。