私のかわいい子猫ちゃん 14

「君、そろそろ起きて帰らないと」
 知らぬ間に眠っていた体を揺すり起こされ、アレクサンドルは重たいまぶたを持ち上げた。意識が途切れる直前まで記憶している体勢とさほど変わらない、座ったまま抱えられた状態で固まった体をさらに硬直させる。目の前のぬるい首筋からは変わらず甘い匂いがした。
「起きたかい? 動ける?」
 しがみついたままの体から笑いを含んだ振動が伝わり、アレクサンドルはやってしまった、と緩慢で慎重な動きで徐々に距離を取る。
「おはよう、子猫ちゃん。体は痛くないかい」
 覗き込むように至近距離で顔色を窺われ、軋む体を無理に反らしいくらかの距離を確保した。
「ダイジョブ、です……」
 背中に回されていた腕が腰を支えるのをむず痒く感じ取り、いたたまれなさに顔を伏せる。いい歳をして人様に抱きついたまま眠るなんてとんだ醜態だ、とアレクサンドルが長いため息をついた。
「……今、何時?」
「じきに午後の三時だ」
 最後に記憶している時計の針の位置は昼前だったことを思い出しながら、アレクサンドルは完全に離れたシャルマンから表情を覗かれないよう膝に肘をついてうなだれた。
「……、ずっとさっきの格好で俺のこと抱えてたの?」
 ソファに上げていた足を下ろし座り直したシャルマンを仰ぎ見ると、質問の意図がわかりかねる、と首をひねりながら平然と答えた。
「寝かせてしまってもよかったが、また寝癖がつくだろう。せっかく整えたのに」
「……とんだご迷惑を」
「全然、まったく問題ないよ」
 とっくに冷めているテーブルの紅茶を飲み干すと、シャルマンは笑ってアレクサンドルの頭を撫でた。
「まだ少し混乱しているようだし、もう一杯紅茶を淹れようか。もういい時間だし、飲み終わったら暗くなる前に帰りなさい」
 そうと決まればとさっさと立ち上がろうとするシャルマンを、アレクサンドルはなんの考えもないままに無意識に引き止める。シャルマンの腕を掴んだ手はすぐにはっとしたように離れていった。おずおずと手をさまよわせ目を泳がすアレクサンドルの隣に座り直したシャルマンが、ふむと鼻を鳴らす。
「どうかしたかい」
「いや、なんでも……、ごめんなさい」
「そう?」
 次の言葉を待ちじっと見つめてくるシャルマンの視線を受け止めきれなくなったアレクサンドルが、蚊の鳴くような声を絞り出す。
「あの、……今日も泊めてもらうのは?」
 弱々しい声と合わない視線が様々な感情を悟られないためのものだと理解しながら、シャルマンは小さなため息をこぼした。アレクサンドルが感嘆と甘さを含んだそれを聞き取ったかどうかはわからない。伸ばされた手がまたアレクサンドルの髪を梳く。
「もちろん、と言いたいところだが、今日は一度帰りなさい」
「……」
「君が離れがたいと思ってくれるのはなによりも嬉しいが、それでもだめだ」
 髪を乱しすぎないように繰り返し通り過ぎていくシャルマンの指は、アレクサンドルを拒絶しているわけではないと温度を持って伝えた。アレクサンドルのぎこちない動きは拒否された事実を嘆くものではない。
「君の本質はここではなく、あちらにある」
 優しく諭す声音にアレクサンドルが曖昧ながらもうなずくのを見て、シャルマンは満足げに笑う。未だ心細そうな淡い色の瞳が、離れていく手を眩しそうに追った。
「……また来ても?」
「もちろん。いつでも。明日でも、明後日でも」
 アレクサンドルの表情からやっと必死さが抜け、安心したように眉尻を下げため息をこぼす。意図した意味で言葉が伝わっていることを確信したシャルマンが目元を緩めた。
「いい子だ、私のかわいい子猫」
 シャルマンは思い出したように照れが混ざり始める肌の色を見て、おかしそうに短く笑った。

2022.03.15 初稿
2024.02.06 加筆修正