北の教会にて 1

 幼いころに見た、北の教会の美しい人を今でも夢に見る。彼は悪魔と呼ばれ、楽しげに微笑んでいた。
 もうほとんど、だれも覚えていない。忘れろと言われた存在。
 忘れるなどできるはずがない。彼は天使だったのではないかと、今も鮮明に浮かぶその白い翼に焦がれているのだから


 日付を超えて数刻、誰もいない教会の、埃と湿気と古びた蝋の匂いの立ち込める空間に青年は立ち尽くしていた。もうずっと火など使われていないだろうにどことなく煙たさを感じるのは埃と薄暗さのせいかと、鼻の付け根にしわを寄せる。彼の目の前にはまだ小さなころに初めて見たものと同じステンドグラスがそびえ、月明かりを呼び込み広い聖堂内を照らしている。記憶の中で磨きこまれていた床には埃が積もるが、それでもなお仄かにその光を反射する。
 わずかな衣擦れの音すらも響かせる幻想的な空間に、深く長いため息が広がる。詰めていた呼吸をほぐすようなそのため息の主は不安げに聖堂全体に視線を泳がせると、再度口元を引き結び一歩前に踏み出した。
 コツン、コツン、と身廊を進むごとに革靴の音が響く。高鳴る心臓は明かりのない夜の聖堂という非日常のためか、そこに無断で侵入する自分の行いのためか、夢にまで見るいつかの人に会えるかもしれない興奮からか。踏み抜くのを恐れるような慎重な足取りは、いくらか彼の鼓動を落ち着かせた。
 進む足はコツリと最後の音を立て、クロッシングの手前で止まった。もとよりこれより先に足を踏み入れる気はない様子で、掲げられた十字を見上げしばし沈黙する。
 ここに来たところでなにか変わるわけではない、それでもなにもしなかった後悔よりはいいと、拝借丶丶して作ったスペアキーの入ったスラックスのポケットを上から押さえる。
 自分は地獄域だろうかとぼんやり考えながら、不安を逃すために青年はぎゅっと目を閉じた。
 青年のまぶたに浮かぶのは、燃える赤と微笑だった。乾く喉奥から押し殺したような声が漏れる。
「主よ、今、彼は……」
「誰だって?」
 背中越しに届いた声にぎくりと青年の体が硬直し、一瞬で全身の毛穴が開き汗が染み出るのを感じた。
「随分堂々とした不法侵入者だ。いや、迷える子羊ってやつかい?」咳払いを一度はさみ、声は続く。「残念ながら、この教会に神は不在だ」
 低く甘い、しかし何年も使われていないような、かすれてひび割れた声が聖堂に響く。
 扉は閉めた。中には誰もいなかったはずだ。いや、久々の空間と背徳から来る高揚感に気を取られ見えていなかっただけか。頭髪の一本一本が浮く感覚にめまいを覚えながらも、青年――アレクサンドルは早急に思考を巡らせながらぎしぎしと声のほうへ向き直る。今しがた横を通過したベンチに座る人物を認めると、声にならない悲鳴が喉の奥で心臓を締め上げ、一瞬動きを止めた。
 そこに座る、濡れ派の髪を掻き上げカソックをまとった男はさらに二、三度咳払いをすると、眠たげに少し伏せられた深い青の目をアレクサンドルに向けにこりと人懐こく笑った。ステンドグラスを反射した目は虹色にきらめいている。
「失礼。しばらく声を出していなかったもので。こんな夜になにが望みだい。カミサマのあては外れてしまったようだが」
 声の調子を取り戻した、自分よりは年上であろう、ただしいくつともつかない整った顔立ちのその人がふわりと優しく微笑む姿は美しく、アレクサンドルは自身の深くに押し込んだ情景を思い出さずにはいられなかった。
 北の教会の美しい人。記憶の中のそれと少しも違わぬ目の前の彼が天使であると結論付けるのに、それほどの時間はかからなかった。
「天使様、本当にまだいらっしゃったんだ……」
「なに、天使? この私が?」
 男は伏せがちなまぶたをきょとんと一瞬大きく持ち上げると、今度はすっかり破顔してくつくつと喉を鳴らす。
「私が天使か。おかしなことを言うね、君。それは、もしかして私を褒めてくれているのだろうか。ありがとう」
 端正な顔をゆがめて笑う姿は多くの女性がうっとりと見とれるだろうほどに美しく、アレクサンドルは笑われていると理解しながらも黙って見つめるしかできなかった。
「それで、君、この封鎖された教会になにかご用かい。ここには立ち入らない決まりのはずだ。鍵はどうした? どうやって封印を?」
「あ、えっと……」
 封印の言葉に疑問を覚えながらも、咎めるような目線にアレクサンドルは我に返る。言い訳など考えてきているはずもなく、しどろもどろに口ごもり目線を泳がせた。
 天使ではないと否定されてしまった以上、ここを管理している「人間」にいきなり見つかってしまったことになる。しかも、見ず知らずの相手にいきなり天使だなんて。気恥しさから、アレクサンドルの耳にカッと熱が集まっていく。
「まさか、人がいると思わなくて、すみません……。えっと、神父様、でしょうか。鍵は、その、少し前から壊れていて……」
 素直に全て言う必要などないとわかっていながら、少しの噓に冷や汗が湧き出た。その衣装やまっすぐな視線を受け、アレクサンドルの本能が反応しているのだろう。
「鍵、盗んだのかい?」
「いえ! えっと、あの……お借りしました……」
「……盗んだのか。君のような善良そうな人間が、なぜそうしてまでこんなところに」
 男は不思議そうに眉根を寄せると、人は見かけによらんと言うが、と数度まばたき、視線を明後日の方向に巡らせた。
「天使と言っていたね。なにか祈りたいことでも? 街の中央の教会はいつでも門戸を開いているだろうに。まさかここに入ってくるとは思いもしなかったよ」
「それは、その……すみません。ここはずっと誰もいないものだと……」
 封鎖されながらも放置されていない小綺麗さを保っている時点で、誰かが管理しているだろうことなどいくらでも想定できたのに。これでは本当にただの無断侵入だ、とアレクサンドルはうなだれる。鍵を盗んで、正確には無断でスペアを作り利用したことも、無許可で立ち入ったことも咎められて当然だ。
 あれ、とポケットにねじ込んだ鍵の存在を思い出すし、アレクサンドルは違和感に首をひねる。そういえば、正面の扉はそもそも施錠されておらず、外部から南京錠と鎖で封鎖されていた。内側からは干渉できるはずがなく、つまり彼はもともと中にいたことになる。自分が入ってきてから鎖がぶつかる音も、その扉が開いた音もしなかったし、正面の扉以外の出入り口から入りそこに座ったのならば、聖堂の中心、身廊をまっすぐ進んできたアレクサンドルから確実に見えていた。どうしたって音もなくそこにいることなど不可能だった。
 ぞくり、とアレクサンドルの背筋に冷たいものが走る。
 以前から何度もここを訪れている。居住区と思しき建物が隣接されているのは見たが、そちらも同様に外側から施錠されていたのではなかったか。誰も住んでいないことなど、周知の事実ではなかったか。教会の人間が管理のために訪れることもほぼないと、これまで何度も訪れた中で感じ取っていた。彼も鍵を持っているにしても、他の出入り口があるにしても、こんなにひらけて音の響く空間で、気付かれずに動けるだろうか。そもそも、封印とは。
 こめかみを冷や汗が伝った。この街で誰もが一度は聞かされるこの教会の言い伝え、自身の記憶とは正反対の、大人が口々に告げるそれが脳裏に浮かぶ。
 ――北の教会には悪魔が住んでいる。
 神父服の美しい彼が、いざ目の前にした途端に恐ろしいものに感じられた。天使でも悪魔でもいいから一目会いたいと、すがる気持ちで錠に鍵を差し込んだ自分をまるで忘れてしまったかのごとく、体の芯が熱を失っていく。
「あの、神父様……、あなたは……」
 どんどん乾いていく喉から声を絞り出すと、男は眠たそうに仰ぎ見ていたステンドグラスからアレクサンドルに視線を移し、ふんわりと優しく笑った。
「なんだい。哀れな迷える子羊くん」
「どうやって、ここに」
 アレクサンドルがどもりながらも問うと、どうもこうも、と美しい声が返ってくる。
「私はずっとここにいる。君がここを訪れるずっと前から」
 何年も人が訪れていないはずの静止した冷たい空気を揺らす声は静まり返った空間には大きく、しかしアレクサンドルの心臓の音を掻き消すには少し小さい
 そんなはずはないのだ。ここには誰も住んでいなかった。扉を開いた時には誰もいなかった。あの瞬間から、小さな衣擦れの音すら響くこの場所で、埃と湿気をまとったこの重たい空気を揺らすのは自分の存在だけだった。彼は本当に神父なのか。ここを管理する「人間」か。「神父様」の呼びかけに答えてはいるものの、天使ではないと否定していない。もちろん、肯定もされていない。それ以外の存在の可能性も否定できない。
「君の罪は鍵を盗んだことでも大人の言いつけ丶丶丶丶丶丶丶を破ったことでもない。そんなもの、他の人間に比べればかわいいものだ」
 ――哀れな君の罪は、この教会に足を踏み入れてしまったことだよ。
 男は慈愛すらこもる細めた目でアレクサンドルを見やり、口角をやんわり持ち上げ、つややかな声で告げた。
 静かな空間に、さらり、と衣擦れに似た音が現れる。自分たち以外にまだ誰かが、と身を強張らせたアレクサンドルは、しかし目の前で光る真っ白な物体にたまらず息を漏らした。
「すまないね。私は君が求めた神でも、ましてや神父でもないんだ」
 さらり、ばさり、と音を立てながら、座ったままの男の背中に大きく白い翼が広がる。窓やステンドグラスから差し込むかすかな光を余すことなく反射して輝くそれは、絵画や絵本に描かれるよりももっと神々しく美しかった。体の奥から湧き上がる感嘆を表す言葉は、アレクサンドルの中にはどこにも見当たらなかった。
「やっぱり、天使様だったのですね」
「残念ながら、それも少し違う」
 そうであれ、と乞うようにつぶやき翼から目を離せないアレクサンドルに、全く違うとは言い切れないが、と苦笑交じりの否定を男は漏らす。
「君もこの街で育ったのなら、聞いたことがあるだろう」
 低い背もたれの向こうにさらに大きく開かれた翼は、動きを確かめほぐすようにバサバサと音を立てて何度か揺れる。ゆっくりと立ち上がる男に合わせて、ベンチにぶつからぬよう一度器用に広がり、その背中にたたまれた。
「北の教会には悪魔が住んでいる、と」
 重たげな黒いカソックをまとう彼は、立ち上がってみるとアレクサンドルが少し見上げるほどに背が高く荘厳だった。真っ白な翼がそれをさらに加速させ、重さを中和する柔らかな微笑は息を呑むほど美しい。
「私はその、悪魔だ」
 ゆっくりとしたまばたき一つで青から真っ赤に染まった瞳で、男はアレクサンドルに微笑みかける。アレクサンドルは呼吸すらも忘れ目を見開きその瞳に見入った。
 燃えるような、透き通るガーネット。青いステンドグラスの光を受けてより一層深く光るそれは、今まで見た中で最も美しく、忘れ得ぬ透明な赤色だった。
 心臓が早鐘を打ち、体中が興奮に応え熱くなる。逃げろと訴えかける理性と本能と、それらと同じく抗えない高揚が同時に頭を支配していた。
 悪魔が住む教会。小さな頃、すでに名目上は使用されていなかったこの教会に、だから子供だけでは近寄ってはならないと言い聞かせられていた。その当時はまだ若い司祭が管理していた。いつからか建物は外から南京錠がかけられ、いたずら盛りには肝試しにと誰もが一度は訪れた。それでも建物は美しさを保ち、全ての窓は内外から施錠され割れることもなく割る者もおらず、当然ながら誰かが立ち入ったという話もなかった。実際に悪魔を見たというものなどいるはずもなく、老朽化による倒壊の恐れと複雑な権利関係を理由に封鎖し放置されているだけ、と大人になるにつれて誰もが納得した。子供向けのよくある作り話だと理解していた。
 おそらく、自分以外は。
 ここに来たのは本当に最後の、可能性などないとわかった上での足掻きだったのに。
 アレクサンドルは乾き張り付いてまともに出ない声を喉奥から絞り出す。
「そ、んな、天使様、なにかの冗談ですか……」
「冗談なんかじゃないさ。何度でも言うが、君の思う天使ではない」
「だって、そんな、真っ白な翼……それに悪魔が教会に住んでいるなんて」
 男は方眉を持ち上げると、少し嫌らしい笑顔で翼をはためかせた。
「羽の色なんて関係ないよ。白か黒かってやつかい? そんなの人間が勝手に決めたんだろうに。私には関係のないことだよ」
 笑顔のままの男がゆっくりとアレクサンドルに歩み寄る。教会に入ってきた時と同じような、より重たい足音が聖堂に響く。どこからか漂う甘い香りは彼のものだろうかと、アレクサンドルは頭のほんの片隅で考えていた。
「君がどれほど敬虔なクリスチャンかわからないが、悪魔が入れないほど神聖な教会なんてほとんど存在しないよ。なにより、私はおそらく君が生まれるよりずっと以前からここに招き入れられている。君が信じようと信じまいと、私は悪魔で、この教会は言い伝えられている通り私の住処だ」
 服は借り物だがとにこやかにこぼし、アレクサンドルの目の前で立ち止まる。
 手を伸ばせば容易に抱え込まれてしまうほどの距離で、男は腰を曲げ顔を傾けてアレクサンドルと目を合わせた。その行為に後ずさることもできず、アレクサンドルは真っ赤な瞳に捕らえられる。
「それと、もうひとつ」
 また人懐こく一層笑顔を深めると、長いまつげに陰った瞳がゆらりと光る。体は少しも言うことを聞かず、恐ろしいとはこういうことだと本能が理解しながらもアレクサンドルはその姿に魅了され、どこか他人事のように聞き入るしかできなかった。
「不幸なことに、君の魂はここに足を踏み入れた瞬間から私のものだ」
 投げかけられた言葉の意味など、党に理解できていない。
「どうやって封印を解いたのかと思ったが、君は”彼”の祝福が残っているみたいだ。それにしたって、そこまでしてわざわざ私の家丶丶丶に踏み込むなんて、とんだ迷い猫だ」
 男は一通りアレクサンドルを見つめると、満足げに小さく息をこぼす。
「私がここを放棄するまで、入ってきたものは好きにしていいという約束があるんだ。〝彼〟の祝福と、君の美しい瞳に免じてすぐにどうこうはしないでおこう」
 宝石のような目を薄めて顔をほころばせ、呼気を感じるほどに顔を寄せる。低い声が聖堂内に祝詞のごとく響き渡る。
「せいぜいよろしく頼むよ、迷える子猫ちゃん」
 いつの間にか消えていた真っ白な翼と、紛れもなく存在する目の前の相貌は記憶をさらに鮮明に彩り、アレクサンドルの思考をしばらくの間奪ったままだった。少し冷えた男の手に頬を撫でられ現実に引き戻されるまで、彼は男の真っ赤な目を見つめるしかできなかった。

2021.09.18 初稿
2024.01.27 加筆修正