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アキのこと

何か月もため込んでいた記事をアップしようかなと思います。




午後4時を回ったころ、1本の電話が入った。
「主任! Y先生から電話が入ってます!」
スタッフと変わって電話口に出る。
他病院の循環器外来で診察中のY医師からだった。

「これからファローの子連れて帰るから、クベース暖めて、レントゲンと検査科押さえておいて」の指示。

ファロー(Fallot)四徴症とは、チアノーゼを伴う先天性の心疾患で、心室中隔欠損、大動脈騎乗、肺動脈狭窄、右室肥大の4つの特徴を持っている。
泣いたり、興奮したり、哺乳したり、入浴などでチアノーゼは増強する。

治療は、基本的には手術が必要となる。1回の手術になるか、複数回の手術になるかは、その子の病状次第という事になる。
アキの場合チアノーゼが強く、一度シャント術を行って、その後の手術に
向けて一旦退院することになった。
私たちがアキと関わった期間はおよそ9ヶ月(だったと記憶している)。


アキと過ごした期間中、まず私たちを悩ませたのは「保育器の湿度調整」だった。器内の湿度は常に90%近くで調整が出来なかった。初めは保育器が壊れていると思い別の保育器に変えてみたが、結果は同じだった。
泣いたり、喜んで手足をバタバタさせたりすると、チアノーゼも増強するが汗も凄かった。毎日保育器の中で清拭をするが、全く追いつかず、汗の量が上回っていたのだ。

アキは心疾患を抱えて生まれてはきたが、低体重児ではなく、むしろ大きな赤ちゃんだった。1か月、2か月と月日が経つにつれ、甘えたり抱っこされたかったり、さまざまな表情をしたり泣いたりするようになった。チアノーゼの増強を考えるとあまり泣かせたくないし、保育器の中で抱っこすると泣き止むし、かといって体重があるため看護師の腕は疲れるし・・・。
健康な子どもだったら母親やほかの誰かに抱っこされているだろう。しかし保育器の中では限界があった。
病気は病気として医師の治療に沿って私達も看護していくが、小児看護で考えなければならないのは、子どもは成長・発達し続けるという事である。
大事な時期にどれだけ必要な手をかけられるかが求められると思っている。

幸いアキの状態が少し安定していたこともあり、モニターを装着したまま
バスタオルでくるんで、保育器の外で抱っこすることを始めてみた。
一日1回、短い時間から初めてみたが、抱っこされるといい表情になり、泣くこともないためチアノーゼの増強もなかった。看護師皆が我も我もと抱っこしたくて仕方がないようだった。
当時の小児科の看護師たち、本当に子どもが好きだったんだなと、今改めて
そう思う。

この保育器外で抱っこすることを通して、私は、湿度問題も解決できるのではないかと考えた。
大胆にも保育器外で沐浴してみたらどうか?と考えたのだった。
この計画を実行するためには医師の協力なしにはできないため、担当医を含めた数人の医師と話し合いを重ねた。必ず医師が立ち会う事、沐浴時間5分
酸素はすぐ使えるように準備しておくこと等で実施することが出来た。これはもちろんアキの病状が落ち着いていたからできたことであるが、当時の小児科医たちの理解と協力があってこそ出来たと思っている。
私達看護師は、看護の視点で物を言えたし、小児科医たちは医師としての判断でNOやYESを言ってくれた。そしてできる限りの協力を惜しまなかった。
いいチームだったなと思う。
保育器の湿度問題も、沐浴と抱っこで解決されていった。
ただ夜勤の看護師は大変だったと思う。泣くと必ず抱っこするため、自分の仕事がはかどらないことも多かったと思うのだが、おそらく二人夜勤の相棒が二人分の業務をこなしていたんだろう。朝の引継ぎまでには仕事の整理が出来ている毎日だった。


アキの最初のころの栄養は、鼻から細い管を入れてミルクを注入する、いわゆる経管栄養だったが、吸啜反射も強く、そのうち経口哺乳に切り替わっていった。

アキがシャント術を受けたのはいつだったか?
シャント術後状態が安定し、いろいろなことが出来るようになったと思うが
どうにも記憶が曖昧である😂

経口哺乳と言っても、アキは口蓋裂があったため普通の乳首を使うと鼻から
ミルクが漏れてきてしまう。そのため口蓋裂用の乳首(ロングフィーダー)を使っていた。
ロングフィーダーは、普通のものよりも先端が細長くなっていて、のどの奥の方にミルクを届けるので鼻から漏れてくる割合は少なかった。
初めはそれを使ってアキも飲んでいたのだが、すぐ嫌がるようになった。
考えてみるとそれはそうだなと思う。あの長い乳首が喉の近くまでいくわけで、私だったらすぐに嘔吐してたかもしれない。
吸啜力が弱かったわけではないため、すぐに普通の乳首に戻して哺乳を始めた。勢いよく吸うためむせることもあったが、時々哺乳瓶を離し、また飲ませるを繰り返す。結局はアキ自身が勝手に上手に飲めてきた、という印象である。抱っこされ安心する中で、「吸う」と「飲み込む」のバランスがとれていった感じであった。看護師の顔を見ながら遊んだり、声を発しておしゃべりしたり、「お話ばかりしてないでちゃんと飲もうね」なんて言われたりしながらすくすく大きくなっていった。


そんなアキもクベースからは完全に卒業して離乳食が始まり、次の手術の前にいったん自宅に帰ることになった。その頃は歩行器に乗ってピースしながら笑顔を振りまくアキがいた。
チアノーゼで真っ黒だったアキがここまで元気になるとは想像以上だった。
数か月の間悩みながら行ってきた子どもの看護が
次の外科手術までつなげられたこと、
成長の過程でたくさん関われたこと、
それは私たちにとって大きな大きなプレゼントだった。


この経験を次世代にも伝えるべく
私は記録を残しておいた。
当時受け持っていた看護学校の授業でも話したし
後輩がその記録を欲しいと言うのでみんなに渡したと思う。
でも今その記録は私の手元にはない。
40年前の記録はどこかに消えてしまった。
結婚や出産、子育ての最中にどこかに消えてしまったらしい。


アキは術後亡くなった。
関りが長かった分とても悲しかった。


泣いた。


泣いたことが悪いと外科関係のスタッフに責められた。


家族と同様に関わってきたんだから
泣いたっていいんじゃないの?

小児科の医師も顔を曇らせていた
小児科医も同様に関わってきたから。



忘れられない
アキの事
小児看護の基礎を教えてくれた子でした。






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