『ハイドロサルファイト・コンク』 書評

『ハイドロサルファイト・コンク』
花村萬月 著/集英社
ISBN:978-4-08-771783-9


 圧倒的な死の可能性を前にして、果たしてそれを正確に書き残しておけるだろうか。いざそのときが訪れたとして、直面している状況、心身に起こる様々な変化、目まぐるしく移り変わるあらゆる物事、その全てをありのままに保存することはできるだろうか。時々そんなことを考える。
 恐らく書き残すことはおろか、正常に思考することすら難しいだろう。本能的な恐怖と逃避行動の果てに精神を壊すか、生ぬるい諦めに全てを委ねて無思考の海へと沈むか。
 しかし本書の著者はそうではない。
本書は骨髄異形成症候群を発症した著者が、抗癌剤治療、骨髄移植、移植後のGVHD(移植片対宿主病)、挙げ句の果てに脊椎四カ所骨折に至るまでを仔細に観察、記録し、書き綴り続けた小説だ。ノンフィクションでもあり、フィクションでもある。闘病記でもあり、病とそれによる精神の変容についての一考察的論文でもある。事実と妄想と現実と幻覚が複雑に絡み合い縺れ合って成り立った世界は、圧巻の一言に尽きる。
 タイトルの〈ハイドロサルファイト・コンク〉、これは工業用としても使われる、強力な漂白剤の名称だという。人の身さえ溶かす強力な薬剤と、己の身に流れる血液をすべて殺して他人の血と入れ替える骨髄移植の記録小説。こんなにも美しく調和したタイトルがあろうか、と感動を覚えた。

 作中の〈私〉は(この作品では著者がひたすら自身のことを書き綴っているのだが、まるで作家である著者が〈私〉をひとりの登場人物として俯瞰して書いているようにもとれるので、以後〈私〉と記述させて頂く)病の兆候を悉く無視し、妻に半ば強引に連れられてきた病院で血液の異常を指摘され、骨髄穿刺をすると言われても焼肉屋で食べた脊髄を連想して思い出す始末。おまけに骨髄穿刺をするかしないかと言われている、常人であれば不安で仕方がないであろうときに、あろうことかベニテングダケの中毒性を試すなんてこともしているのだ。病名が告知される前からにわかには信じがたいぶっ飛び具合なのだが、こんなのはまだまだ序の口であった。
 本書で一貫して書かれるのは「痛みの記録」だ。肉体の痛み、精神の痛み。自己と他人の痛みの境界線、そもそも痛みとは、なぜこれを痛みと捉えるのか、それによって精神に与えられる影響は――。著者の書き記す痛みは、病によって自己の内に生じるものだけではない。病に寄り添う人が知らずのうちにその心に抱える痛み、過去の記憶がふいに蘇ることによってリフレインする痛み、決して分かり合えない、分かってはもらえないという孤独が生む痛み。著者はそれら全てを淡々と記録していく。過去と現在、自己と他人を行ったりきたりしながら、「痛み」そのものに迫ろうとするかのように緻密に、ただひたすらに書き続ける。無菌室で抗癌剤に心身をボロボロにされながら、『二度死ねる量の』放射線を浴びて柔らかな虚無に沈みながら、GVHDによる膀胱炎で血尿を流しながらも連載小説を書き、自己の観察を続ける。

『十八歳のころに夢中になった〈テンペスト〉というバンド、それもやたらと録音状態の悪いBBCのライブにおけるアラン・ホールズワースとオリー・ハルソールの超絶技巧、凄まじい速弾きの応酬を割れた大音量で聴きながら、致死量の放射線を浴びたいと思った。』

作中より引用

 それでも〈私〉は意識を取り戻して早速書き始める。まるで何かに取り憑かれたかのように。
 読んでいて疑いたくもなってくるのだが、ここにこうしてその結晶たる本書があるのだから紛れもない真実なのだ。著者の書くことへの執念がすさまじい。書くこと、その行為そのものが著者を生かしていたのだろうと思う。

『私としては、どのみち死ぬのなら、治療に費やす時間を執筆にあてたい。頭のはっきりしているうちに書くべきものを書ききってしまいたい。』

作中より引用

 まったくその通りだなと思う。著者とは比べるのも烏滸がましいほどだが、私も趣味とはいえものを書く人間であるから、少しわかるような気がしてしまうのだ。ああ、きっと同じ状況になったとしたら、私もペンを執りたいと強く思うのだろうな、と。しかし実行に移せるかはわからない。

 ものを書く人間は、書きたいと思う人間は、きっと本書の隅々にまで満ちている「書くことへの狂気的な衝動」に酔わされるのではないだろうかと思う。それは心地いいが、同時に破滅的でもある。ものを書くということは、同時に少し死に近づくことなのかもしれない。死を間近に見た著者の書く世界がどこか眩く、神々しいまでに真っ白に美しく思えるのは、きっとそういうことなのだ。


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