「優秀な学生」という神話

優秀な学生を採用する。
あの人は優秀だ。

誰しもがそんな言葉を聞いたことがあるのではないか。「君は優秀だね」と言われていい気分になったことがある人もいるだろうし、ライバルが優秀だと言われているのを目撃して嫉妬してしまったという人もいるだろう。

しかし、優秀、優秀と唱える人に、「優秀な学生とは具体的にどのような人を指しますか」と質問すると、答えに詰まるだろう。せいぜい、「能力が高い」などと答えるのが精いっぱいではなかろうか。「インターンに参加している人」や「自発的に動ける人」という答えも本質的にはずれた観点だ。その理由を以下で説明する。

「優秀」は何を意味するか。デジタル大辞泉(小学館)によれば、「非常にすぐれていること」という。優れているとは相対的表現である。すなはち、比較対象がなければ意味が成立しない。比較を行うためには基準が必要だ。

比較を行う際、その結果をもって断言するには、その基準は定量的でなければならない。なぜならば、定性的な基準による評価は主観に基づいているからだ。スコアなどの連続した数字や0or1(できる・できない、合格・不合格など)は定量的基準だ。また、たとえ定量的であっても、その基準の妥当性を欠いていては適切な評価とは言えない。妥当性は評価目的に照らし合わせた場合に相応しい基準かどうかということである。例えば、TOEICの点数がいくら高くても、英語を実際に使いこなすことができなければ、英語ができる人とは本質的には言えないだろう。

また、「優秀な営業マン」と言えば、営業職の仕事を知っている人であれば、「より多くモノを売っている人」ということが想像できるはずだ。これは、営業マンの目的が「モノを売ること」と明確に定まっているからだ。ここでもう分かったのではないかと思うが、目的が妥当であるためには、その目的自体が意味のあるものでなければならない。モノを多く売る営業マンが優秀と言えるのは、会社に利益をもたらしているからである。一方、英語の例を再度持ち出すと、例え英語が使えたとしても、仕事で英語を使う機会もなく、業績を上げている訳でもないならば、英語やTOEICという基準は仕事という点では何の意味も持たない。これらの例から分かるように、「優秀」という言葉には評価者側のメリットが目的の妥当性の面で特に強く関係しているのである。

学生全体を一括りにして「優秀」「優秀でない」を評価する行為には、そもそも統一的な評価者が存在しない。確かに、学生の本分は学業とは言うが、研究者になるために学業をやっているのでない限り、学業は学生本人のために行うものであり、他人のためではない。この時点で、学業をもって学生を優秀かどうかを統一的に評価することはできない。もちろん、「学業の面で優秀」と言うことはできよう。しかし、あくまでその優秀さは「学業の面」に限定され、「人間として・学生として」優秀かどうかということは意味しない。インターン等やアルバイトも基本的には同じである。確かに学生がより多くの仕事に従事することで、その時点での労働力が補われることによって社会に恩恵がもたらされるが、それは同時にその学生が本来その時間を使って学業に勤しんだことによって価値(画期的な研究成果など)が将来産み出される可能性を減ずるものでもある。逆も同様で、研究の道を進まなかった学生は学生時代に学業に勤しむよりもインターンに参加した方が、仕事に慣れるのも早かったかもしれない。このように、学生については絶対的な基準が存在しない以上、ある行為が優秀と言えるかどうかを考えるには時間軸上の比較を行わざるを得ない。しかしそれはそもそも不可能であるし、学生ごとに答えが違ってくることになる。

統一的評価者の不在により絶対的基準がない以上、妥当な評価基準をこしらえることは不可能であり、定量的基準に意味をもたせることはできない。このことにより、例えば「行動力のある学生が優秀」というだけでは言説の域を出ない。というのも、自発的に何か行動を起こし、その回数を数えられるとしても、それがある目的に対してダイレクトに貢献し、またその目的も評価者に恩恵のあるものでなければ、評価者にとっては本質的にはどうでもいいことだからだ。例えば、ソフトウェア開発企業で採用を行っている人にとって、学生がプログラムを何本書いたかによって優秀な学生かどうかを判断するのは妥当である。なぜなら、採用に至ればその行為が直接企業の業績に影響を与える可能性があるからだ。一方、専門商社の営業部長にとって、学生が書いたプログラムの本数など気にも留めないだろう。

まとめると、優秀かどうかというのは、究極的には、その評価をする人物にとってメリットがあるかどうかということなのである。目的の妥当性や定量的基準はその裏付けである。私たちが一般的に「優秀な学生」と言う場合は、無意識に評価者が評価するだろうということを念頭に置いているが、その評価者が恣意的な人物像にすぎない場合がほとんどなのではないか。その恣意性がどの程度かは人によって異なるが、自らまたは自らを含む集団を恣意的に称賛するために「優秀」という言葉を用いることは少なからずある。特に、「優秀」という言葉はセンシティブで時に人を喜ばせたり、傷つけやすい表現である。しかし、「優秀」という言葉が必ずしも妥当性を持つわけではないため、惑わされすぎると何が正しいかわからなくなるだろう。人生を損しないために、神話を信じ込み過ぎないようにしたいところだ。

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