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「6歳児の青森空襲」 伊東周平

 空襲に備えて、昭和20(1945)年7月の初め、青森市郊外の松森に、母(27歳)と二人の弟(3歳と1歳)とで疎開した。父(32歳)は乙種合格で兵役を免れ、飛行機の部品を造る工場に徴用されていて、留守がちだった。沖館の無線局のアンテナをバックにタバコを旨そうにふかしている写真があったので、徴用先は、新田にあった昭和木工だと思う。父からは戦争の話は殆ど聞いたことはなかったが、機銃掃射の話は聞いたことがある。疎開先への帰途、米軍艦載機からの機銃掃射にあったということだ。道端のドブ堰に身を潜め、難を逃れたと言っていた。おそらく7月14,15日の艦載機による連絡船攻撃の時だろうと思う。祖母(48歳)が一人浦町字野脇の自宅に残った。自家を守るためもあるが、米軍艦載機による青函連絡船攻撃以後、市街地から疎開・避難する市民が続出。「逃避者は28日までに復帰しなければ配給停止」との市の布告もその一因か?家財は今のようなトラックはなく、リヤカーか大八車で数回に分けて運んだ。大八車で洋服簞笥を運んだ時は、どこの橋かはわからないが、欄干のない、今にも壊れそうな橋を渡った。ところどころ橋板がはがれ、下には川の流れが見えて怖い思いをした。疎開先では、物も結構盗まれた。地下足袋(タカジョウ)とかレコードなど。食糧は幸畑の農家から調達した。金では売ってくれず、着物とか反物との物々交換で手に入れた。

 空襲前日の昭和20(1945)年7月27日の夜、2機のB29が飛来、照明弾と共に爆撃予告のビラを撒いたようだ。夜空が一閃したのに驚いて外に出た。間もなく、照明弾の明かりを空襲だと思った市民がドーッと幸畑方面の山に逃げてきた。ビラのことは知らなかった。市民の目に触れさせないため、憲兵隊や警察がいち早く回収したとか。

 そして翌28日。21時15分に青森県地区警戒警報発令。22時10分に空襲警報に変わる。この日も父は不在。地区の組長がメガホンで「空襲警報発令!」を叫びながら地区内を走り回った。直ぐに防空頭巾を被り、部屋の電灯を消して、隣の畑の一角に作ってあった防空壕に避難した。防空壕といっても10人程度入れるぐらいの穴を掘り、天井には板を渡し、土を被せただけのまことにお粗末なものであった。床は板敷きだったが、板の敷かれてない窪みには水溜まりができていた。勿論、防空壕の中は灯りがなく、真っ暗だった。やがて爆撃機の爆音が聞こえてくる。爆音が大きくなるにつれ、その震動で天井に被せてある土が板の隙間からボタボタと落ちてくる。外の様子は皆目わからない。爆撃は22時37分に始まり23時48分まで1時間10分続いた。黄燐を入れ殺傷能力を高めたM74型焼夷弾を38本を束ねたE48焼夷収束弾2,186発、実に83,000本の焼夷弾が青森上空に降り注いだ。空襲警報が解除になり、防空壕から出て目にしたのは、青森の市街地が西から東にかけて一面火の海の恐ろしい光景であった。

 夜が明けて、疎開先から見る青森市街地は、空襲による火災の煙が立ちこめボーッと霞んでいた。自宅に一人で住んでいた祖母の消息は不明。親子4人で祖母の捜索と恐らくは焼失してしまったであろう自宅を見に行こうと準備していた昼頃、祖母がヒョッコリ疎開先に姿を見せた。生存していたのだ。祖母の話では、焼夷弾と燃えさかる火焔を避けるために、自宅の近くの、浦町駅通りに沿って海に流れ込む幅約1間ほどの堰(今は暗渠になっている?)に布団を被って入り、浦町駅の方に逃げた。そして降りかかる焼夷弾を避けるように、田圃の中を必死で逃げ回ったそうだ。その当時の浦町駅付近は東北本線以南は一面田圃であった。

 休む間もなく、祖母、母と3人の兄弟5人で自宅の確認に出発。勿論、徒歩で。自宅までは約3kmほど。堤橋を諏訪神社側から渡る。橋の中頃に来たとき、橋のたもとにあった消防の鉄骨製の火見櫓が真ん中辺からグニャリと折れ曲がっていた。(3歳の弟もそう言っている)。これには吃驚仰天した。市街地でも一段高い堤橋から眼を青森駅の方に転じると一面焼け野原。所々にコンクリートの建物や土蔵が焼け残って居る程度で、木造の民家は跡形もない。焼け残った蓮華寺が異様に大きく見えた。堤橋から南へ、松原の踏切手前の浦町駅通りと交わるところの角から2軒の木造の家屋は猛火のなか、燃えずに残ったのは奇跡だ。堤橋から自宅までは500mぐらいだが、途中、溶けて固まったガラス、焼け跡にポツンと立って水がチョロチョロ流れっぱなしの水道栓、自家の焼け跡を確認にきた人たちを眼にした。自宅は跡形も無い。坪庭に埋めておいた米と皿を掘り出した。米は半煮えの状態。皿はヒビが入っていた。ついでに、自宅から200メートルぐらい離れたところに、祖母が、140坪程の土地に畑を作っていた。それを見に行った。色んな作物を植えていた。特にサヤエンドウは食べ頃で、空襲の火で程よく煮えていた。それを狙って、近所の「ワラハンド」が塀を乗り越え、畑に入って豆を貪っていた。我々が行くと、「ワラハン ド」は一目散に逃げた。家を失い、食べるものも、着るものも満足にない疎開先での惨めな耐乏生活のはじまりであった。

 青森で投下された焼夷弾は東京大空襲などで使われたM69を改良した新型の焼夷弾。黄燐を入れ殺傷力を高めたM74。「M74は青森のような可燃性の都市に使用された場合有効な兵器」であるとアメリカ戦略爆撃調査団は結論付けた。

 空襲前に、橋本小学校の前庭で近辺の住民を集めて爆発のデモンストレーションをしたことがある。灰色をした径8㎝、長さ50㎝位、断面6角形の筒状のもの。従来型M69だと思う。周囲には何台かの消防自動車を配置し火災に備えた。爆弾を炸裂させた。雨の如く降り注ぐ火焔の一つが向かいの住宅の軒にひっついた。消防車が放水を始めたが、火を消すのに難儀した。とにかく大事には至らなかった。蛇足だが、仙台の戦災復興記念館に焼夷弾の実物(焼夷弾38本を収束した焼夷収束弾と焼夷弾)が展示されている。

  8月15日は快晴とまではいかないが、天気はよかった。お昼頃になると急に大人たちが いなくなり、周りが静かになった。玉音放送(小生は知る由もない)を聴くためにどこかに集められたのだろう。上空には大型の飛行機が飛んでいた。おそらく米軍の飛行機だろう。どっかからの「危ないから家の中に入れ」の声で急いで家の中に入った。「日本は戦争に負けた」。敗戦?終戦?何の感動もなかった。何も知らないんだから当然だ。

 終戦の後何日かして、新田に引っ越すことになった。父が勤めていた(徴用されていた)昭和木工の寮だったと思う。会社の敷地の中にあり、所帯持ちが入るところは個別の玄関があった。詳しくはわからないが、その裏に、食堂らしき部屋もあった。会社の裏(北側)は300mほど行くと砂浜。当時の青森は、駅裏(駅の西側)には営林局の貯木場などがあり、それ以西は遠浅の砂浜が続く。新田に引っ越して間もなく進駐軍が上陸してきた。沖合に輸送艦らしき大型の船が停泊していたのは見ているが、進駐軍の兵隊がどのように揚陸したかはわからない。昼前だと思う。進駐軍は2列縦隊の隊列を組んで松前街道を西に向かって行進してきた。2,300人ぐらいいただろうか。背も高くガッチリした体躯の兵隊たちで、黒人兵もかなりいた。その行進を母らと一緒に顔を上げず怖々と見ていた。進駐軍は新城川の油川側の川尻に駐屯地を設営するためだった。あまりの怖さに、深浦の親族のもとに逃げることにした。お昼過ぎ、祖母以下5人(祖母、母、5歳の小生、3 歳と1歳の弟)が直ぐに身支度を調え、1歳の弟は母がおんぶして、徒歩で奥羽線津軽新城駅に向かった。油川岡町経由で約6kmの距離である。奥羽線下りの汽車に乗れたのはいいが、川部で乗り換えた汽車は鰺ヶ沢止まりの終列車。深浦行きはもう無い。とにかく鰺ヶ沢駅へ。着いたのは真夜中。鰺ヶ沢にも親戚はあるが、真夜中で場所がわからない。駅舎で泊まることにした。駅には他に誰もいず、我々だけだった。食事は出がけに急いで握ったおにぎりと配給になった、米国製の、細長い円筒形の缶詰めのパン、缶詰のイカだった。パンは滅法美味しかった。イカは見た目、イカスミで真っ黒だが味はまあまあだった。

 夜が明けて、鰺ヶ沢の親戚宅を訪ね、そこで一休みしてから深浦へ向かった。深浦には1週間ほどいたと思う。

 新田に戻って数日後、外で遊んでいたら、海の方から黒っぽい雲みたいな煙(当時3歳の弟は「煙幕」だと言っていた)が流れて来た。煙が通過したとき、涙がボロボロ流れ、呼吸困難に陥った。死ぬかと思うほどの息苦しさだ。今思えば塩素ガス(化学兵器)だと思うが。一体、誰が、何の目的で、何のために放出したのかは不明。

 戦時中は男は兵隊に取られ、漁業が満足にできない状態。終戦直後は魚獲は豊漁であった。ニシン、イカ、イワシ、タラなど。浜辺に漁船が着くと、漁師は箱単位で売った。ニシンは数の子と白子だけを取り、身は捨てた。イカは直ぐ開いて、部屋の中に張ったロープに懸け、生干しにした。夜は暗闇の中で蛍光を発し、薄気味が悪かった。イワシははらわたを取り、10匹位を串に刺し、焼き干しにした。タラは真鱈で1m位あり、口から鰓に荒縄を通し、雪道をひきずって歩いた。
 寮に隣接して社員食堂があったが、食糧が不足し、朝食の味噌汁の具は毎日「玉菜(キャベツ)」の葉っぱだった。社員が「今日も又「玉菜」か」と嘆いていた。

 海の荒れた翌日は、2mぐらいの竿の先に針金の小さい輪っかを付け、海岸に流れ着く海苔や石蓴(あおさ)を引っ掛けて獲った。汁の具にした。毎日の「玉菜」にくらべ、ことのほか美味だった。「すいとん」も常食みたいなもので、単品もので、他の具は入ってなく、まずかった。今は居酒屋に行くと「すいとん」とか「ひっつみ」の品書きがあって、いろいろな具が入っていて、当時の物とは天地雲泥の差。美味しかった。やっぱり食糧難だったんだと納得。

 油川の新城川川尻に駐屯した黒人兵が、夜中に、一斗缶の砂糖を担いで売りに来る。日本の金が欲しくて、駐屯地の倉庫から持ち出したのだろう。土足で畳敷きの居間に上がってきて、「シュガー、シュガー」と言って、畳の上をずらす。その時は折しも停電で、蝋燭提灯を灯していた。「ランターン、ランターン」と言って提灯を珍しがった。父が対応していた。いくらで買ったのかはわからない。そういえば、押し入れの中には英会話の本があったし、アメリカのハーシィのチョコレートやリグレーのチューインガムがあった。何でこんなにアメリカの菓子があるんだろうなと不思議に思ったが、これなども父が売り込まれたんだろう。
 タバコ好きの父にはラッキーストライクという洋もく(外国製のタバコ)が有り難かったようだ。家には刻みタバコを紙で巻くタバコ巻き器もあった。

 会社の裏に結構広い沼があり、餌はご飯粒で、鮒がよく釣れた。筏を作ってそれに乗って遊んだが、筏がひっくり返って沼に放り投げられた。津軽弁で「カッポラゲ」とか言っていた。沼から新城川に小川が流れていた。その小川に沿って草叢が続いていて、夜になると蛍が飛んでいた。蛍をとってきて蚊帳の中に放し、一夜だけの楽しみを味わった。 ひもじさを、強烈に感じた思いは無いが、野辺のスカンポやクヌギの実(?)浜辺に生 えているハマナスの実を食べた記憶はある。ハマナスは超苦かった。人の畑に入って、大根や人参を抜き、そのまま生で囓ったこともある。人家の塀垣代わりに植えたトマトも失敬して食べたこともある。内心忸怩たる思いは今も残っている。

 新城川の新田側は干潟で藻屑蟹が棲息していた。藁しべ(「ワラシンビ」)にイワシの頭(餌)を結びつけ、穴に入れて、引き上げると蟹が出てくる、すかさずそれを掴まえるという具合。獲った蟹は煮てたべた。
 松前街道の南側に森林鉄道が走っていた。近所の「ワラハンド」と遊び半分にそれに飛び乗って、運転士に見つかり、しこたま怒られたことを憶えている。見つからずにいたら何処まで連れて行かれたのやら。今思うと随分危険な遊びをしていたもんだと背筋が凍る思いがする。

 年があけて昭和21(1946)年。4月に沖館小学校に入学。教科書は黒塗りでは無かった。戦で先生が不足し、代用教員がかなりの数いたようだ。担任は、おさない先生とかいった。メガネを掛けたいかにもベテランの女の先生だった。学校までは1kmちょっと。夏休みに入っていたと思う。深浦の親戚に法事があり、祖母と二人で行くことになっ た。青森駅発奥羽線下りの汽車は、客車はすし詰め状態で立錐の余地なし。後ろに繋いだワム(有蓋貨車)に祖母と二人だけ乗せられたことがあった。発車間際になって、ワムの扉は閉められ、車内は真っ暗、しかも真夏だから、もの凄く暑い。明かりは床下の隙間から漏れてくる光だけ。乗換の川部まで、我慢の一途。床下の隙間から見える、走り去る線路ばかりを見ていた、ということもあった。

 秋に浦町野脇にあった畑の一角に家を新築し、新田から引っ越した。学校も浪打小学校に転校した。自宅から2kmほどある。担任は柴田先生。若い美人(と思っている)の先生だった。授業は二部授業。低学年は午前中だが、給食を食べて退校。給食はコッペパンに脱脂粉乳のミルクとかイカのすまし汁が副菜についた。脱脂粉乳のミルクは苦手だった。呑むと気持ちが悪くなり、戻したくなる。

 真冬の通学はしんどかった。猛吹雪。叔父の使った鞄を肩に掛け、足袋に足駄、マント(これも叔父が使ったお下がり)を被って堤橋を渡る。橋の上は凍てついて、スケート代わりに足駄を滑るらせて橋を渡った。大変な目にあった。そんなある日、退校時に、初対面の上級生から市営バスのバス券を1枚(何枚綴りの中の)だけ貰った。早速、それで自宅の最寄りのバス停まで、生まれて初めてバスなるものに乗った。有り難かった。バス券は50銭。その頃のバスは、後ろに木炭の釜を2本積んだボンネットバスであった。
 昭和22(1947)年4月には焼失した橋本小学校が再建され、小学2年の新学期からは橋本小学校に通学することになった。

 自宅から400m。通学時に一番困ったのは冬場。この頃は雪が多かった。物資不足でゴム長(ゴム製の長靴)が手に入らない。祖母が作ってくれた藁靴(藁で作った長靴)。学校から帰ると直ぐストーブの側に置き、乾かさないと翌日に差し支える。学校でも時々長靴の抽選会があり、くじ運が強くない小生にはなかなか当たらない。徐々にではあるが、全員に配られるようになった。ところが、ゴムの質が悪く、2,3回履くと直ぐヒビが入る。その修理のために、学校には、修理のおじさんが毎日のように出張してきていた。

  もともと内湯のある家庭は少なかった。終戦直後は風呂はどうしたんだろうか。空襲の 後、掘っ立て小屋の脇にドラム缶で作った風呂に入っていたのを見たことはあるが、自分がドラム缶風呂に入った記憶はない。被災者はみんな風呂で苦労したと思うがどうしていたんだろうか。銭湯の復旧は意外と早かったのかも知れない。浦町野脇の自宅に引っ越してからは、桶にタオル、石鹸、垢擦りなど入浴用品一式を入れて持って行った。下駄は「歯」のすり減ったセンベイ下駄を履いて行った。新しいのは直ぐ履き替えられるからだ。

 食糧は不足し、アメリカの援助物資が配給になった。小麦粉、乾燥した黄色いトウモロコシ。砂糖はザラメなど。トウモロコシは粉にして小麦粉と混ぜ、大きめの煎餅焼き器で灼いて食べた。「ガッパラ餅」とか言っていた。粉にしないで、「ドンキミ」(ポップコーン)にして、お菓子代わりに食べた。加減を間違うとカルメラにならず、飴になってしまう。小生はカルメラ焼きの名手ということで近所中の家に呼ばれコツを伝授した。

 昭和22年の夏、出征した叔父が帰ってきた。浦町駅のホームに、一人ポツンと降り立った。兵帽を被り、軍服を着、脚にはゲートルを捲いて、軍靴を履き、背嚢を背負っていた。家族皆で迎えに行った。事前に届いた電報では、モロタイ島からの復員であった。出征は昭和18年2月頃だと思う。雪の中で、寄せ書きされた日の丸の旗を持った叔父を、家族や近所の人たちが囲んで撮った写真が残っていたから。その写真は、実家の方で処分してしまったかも。
 

 小学校での講演の原稿は見つかたが、小学生向きにお話しするための読み物であったため、そのままでは使えず、大部分を加除訂正した。
 青森空襲の前あたりから、昭和22年あたりまでのことを書いた。何しろ、74余年前のことであり、思い出すままを経時的に書いただけのもので、甚だまとまりのないものになってしまったが、これでご勘弁をお願いしたい。



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