鈴木克彦「考古学倫理を考える 前期旧石器捏造事件 考古学犯罪のデパート・三内丸山遺跡」(第三章 考古学倫理―研究不正行為・好ましくない研究行為) 2018年12月25日刊行

第三章 考古学倫理―研究不正行為・好ましくない研究行為
「文化財保護法」―埋蔵文化財と考古学の理念

1 「文化財保護法」―埋蔵文化財の「錦の御旗」
 文化財保護法は、日本国家の様々な文化、文化財に関する世界に誇る優れた法律である。
 それは、さまざまな分野の文化、文化財保護の「錦の御旗」と言って過言でない。埋蔵文化財および考古学に関して言えば、文化財保護法はその保護行政と考古学研究のバイブルのような存在である。そして、文化財保護法と考古学倫理は、埋蔵文化財の意義と考古学研究の意義、研究活動を正しく実践するための両輪の関係にある。
 考古学的な発掘調査は性善説を前提に実施されるが、現実の発掘調査は複雑な社会背景の下に法の精神と考古学の基本から乖離した捏造などの「不正行為」が行われることがある。しかし、文化財保護法は、そういうことを想定していない。保護法と考古学の理念は一体なものであり、それを正しく実行するために考古学倫理が矯正の役割を担うのである。
 さて、文化財保護法は、考古学研究の原点である地下に埋もれている遺跡、古墳等の埋蔵文化財を国民共有の歴史的財産と規定し、保護することを定めている。さらに、関連法規と共に社会との係わり方を細かく定めている。それによって市町村レベルまで埋蔵文化財の保護行政の網が張られ、埋蔵文化財を壊して工事等を行う場合、埋蔵文化財の保護を目的に法的に記録保存のための発掘調査が義務付けられた。その結果、地下に埋もれている日本人の歴史が全国津々浦々まで明らかになり、その意義は計り知れないものがある。
また、文化庁では、関連法規を整備し、埋蔵文化財の保護の調整、発掘調査の行政権限、費用負担区分などの事務的権限を、地方公共団体の教育委員会に委ねた。さらに、補助金を与え地方公共団体に埋蔵文化財の保護、保存、発掘調査を専業とする埋蔵文化財センターと保存活用の歴史民俗資料館などの設立を指導している(安達健二一九七八)。
 このように、文化庁では、遺跡等に建物等を造る場合、工事に先立って記録保存つまり考古学の方法により発掘調査を行うように指導している。それが、建設工事に先立って行う行政発掘である。現在、全国で行われている発掘調査の大半が行政発掘である。通常、発掘が終わると工事が行われる反面、発掘の結果次第で三内丸山遺跡のように工事を中止し遺跡を史跡に指定して保存することがある。
 遺跡の保存、史跡の指定或いは遺跡、遺構の復元のための重要なデータが、発掘時の考古学的な記録(実測図、写真等による事実記載)である。そのために、大学で考古学を専攻し専門教育を受けたり、国の埋蔵文化財センターで研修を受け発掘技術を習得した専門職が発掘を担当し、正確な記録を作成する。専門職は、地方公共団体や法人の職員であると共に考古学者であり、発掘に考古学上の責任を負う。専門職、考古学者として恥じないように、学会、研究団体に所属し、論文を草し研鑽を積む。こういう努力により、全国で行われている行政発掘の考古学的レベルが保たれてきた。
 専門職にとって大事なことは、そういう発掘調査の正確な記録保存を行うことである。したがって、行政機関は専門職に発掘の正道を曲げる指示をしてはならない。須らく発掘調査は、国家、地域の歴史を明らかにするものだからである。

2 埋蔵文化財センターの役割
 国は、文化財保護法と関連法規に基づいて、埋蔵文化財の発掘調査体制を強化するため保護行政を地方公共団体の教育委員会に委ね、行政機関(教育委員会)が開発側との調整を行い、埋蔵文化財センターが発掘調査を行う役割分担のシステムを確立した。その考え方は、埋蔵文化財は各地に存在し、地域の開発によって遺跡等に工事が行われ開発か保護の問題が地域住民の利害と密接に絡むことが多いので、地方公共団体にその第一義的な責任を持ってもらうことが望ましいと考えたからである。そのためには、地方公共団体が保護や発掘調査を迅速に行う組織体制を強化する必要があった。その背景に、高度成長経済の急速な開発工事がある。
 文化庁では、埋蔵文化財の保護体制を強化するため国立の埋蔵文化財センターを一九七四年に設立し、順次、地方公共団体にそれを拡大するように指導した。
都道府県の埋蔵文化財センターの役割は、・地域の埋蔵文化財の保護体制を強化し迅速に発掘調査を行うことの他に、・埋蔵文化財の確認、保護、・考古学の進歩に応じた新しい知識と理論の習得、・発掘の技術開発、・市町村の発掘調査や保存の技術指導、研修、・出土遺物の整理収蔵、管理、保存処理、・埋蔵文化財の情報の収集、管理、活用などである(安達前掲書に拠る)。その他に、国民共有の財産である遺跡、史跡や出土遺物を学校教育、社会教育に活用する啓蒙活動が各地のセンターで行われている。
 こういった業務を全うするためには、発掘調査、記録保存と報告書作成を正確に行わなければならない。また、考古学は進歩しており、専門職の教育、研修を行い、研究活動を保証する体制が必要である。何処のセンターでも研究紀要を刊行しているのは、そのためである。
 しかし、地方公共団体のセンターの実態は、埋蔵文化財の発掘調査の処理係として記録保存とは名ばかりの開発優先の粗末な発掘が強要されることがある。特に青森県では、文化庁が想定していない行政機関が上位でセンターは下請け企業のような意識がある。
 また、センターは何処でも膨大な出土遺物を抱え、収蔵施設の狭さが問題になっている。発掘調査と報告書作成に係る事実記載に関する精度を高めるの学術的な規定がなく、発掘機関、発掘者の良識に任されている。地方公共団体にセンターが設立されて四〇余年になり、そろそろ埋蔵文化財保護体制は抜本的に見直されてよいであろう。
 
第二節 正しい研究活動の行動規範

1 文部科学省の研究活動の不正行為に関するガイドライン
 誇り高き科学者になるために、文部科学省は平成十八年八月に「研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて― 研究活動の不正行為に関する特別委員会報告書―」を策定し、直近では平成二十六年(二〇一四)に公布している。そのガイドラインは、考古学など科学全般の研究活動の行動規範として、理想とする創造的で社会的責任を担う正しい研究活動の本質と科学研究の意義を説き、科学に対する社会の期待、信頼を得るために科学研究および科学者の在り方、不正行為を防止するための取り組み方を定めた優れた行動規範である。
 その他に、日本学術会議は、科学者コミュニティが社会から信頼と尊敬を得るために、全ての学術分野に共通する必要最小限の倫理規範の「行動規範」(平成十八年、平成二十五年改訂)を策定している。それらに基づいて、日本学術振興会(二〇一五)が、そのガイドラインや日本学術会議の「行動規範」の内容を分かり易くまとめ、「科学の健全な発展のために―誠実な科学者の心得―」の小冊子(写真1)を作成、刊行している。
 そして、科学研究における不正行為を防止するために不正行為が起きる背景などを分析し、不正行為の定義を明記している。しかし、それに抵触する行為だけが不正行為でなく、科学者として社会の期待や社会的責任に背く行為全体が不正になると戒めている。
 そのようなガイドラインの趣旨を考古学に当てはめると、「考古学研究は、学史を尊重し、発掘調査によって得る事実やデータに基づいて誠実に研究し、研究成果を創造する知の体系を構築する行為」、であると認識される。
また、不正行為は、「発掘調査で得たデータや結果の捏造、改ざん、及び他者の研究成果等の盗用に加え、同じ研究成果の重複発表、報告書や論文著作者が適正に公表されない不適切なオーサーシップなど研究者倫理に反する行為である」、と認識される。
 私がこれから述べる内容は、須らくそのガイドラインの精神に基づくものである。
 ガイドラインの対象は、公的機関、法人、民間を問わず学問上の研究活動を行う全機関とそれの職員である。その存在は、埋蔵文化財や考古学的な調査研究に従事する地方公共団体、埋蔵文化財センターなどの職員にはあまり知られていないので、以下に要点を紹介する。
 なお、記載に齟齬があっては困るので、「ガイドライン」と「小冊子」の文章を引用して説明する。以下の文は、釈迦に説法と思われるだろうが、その内容は我々が何のために考古学を研究するのか、考古学や考古学者の原点を自戒し思い起こすに足るものであると考える。

2 不正行為に対する基本的考え方
 「研究活動とは、先人達が行った研究の諸業績を踏まえた上で、観察や実験等によって知りえた事実やデータを素材としつつ、自分自身の省察・発想・ アイディア等に基づく新たな知見を創造し、知の体系を構築していく行為である。」(以上、「ガイドライン」による)
 「不正行為とは、研究者倫理に背馳し、―中略―研究活動や研究成果の発表の本質ないし本来の趣旨を歪め、研究者コミュニティの正常な科学的コミュニケーションを妨げる行為に他ならない。具体的には、得られたデータや結果の捏造、改ざん、及び他者の研究 成果等の盗用に加え、研究成果の重複発表、論文著作者が適正に公表されない不適切なオーサーシップなどが不正行為の代表例と考えることができる。」(以上、「ガイドライン」)
 それに明記された研究の不正行為は、科学そのものに対する背信行為で社会の科学への信頼を揺るがし、研究者の科学者としての存在意義を自ら否定するものであり、自己破壊につながるものである、と規定し、次のように定義している。

3 不正行為の定義(表1)
(1)捏造 存在しないデータ、(それにより)研究結果等を作成すること。
(2)改ざん 研究資料・機器・過程を変更する操作を行い、データ、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。
(3)盗用 他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究結果、論文又は用語を、当該研究者の了解もしくは適切な表示なく流用すること。(以上、「ガイドライン」)
 ガイドラインは、表題のとおり「研究活動の不正行為への対応」とあるように目的が不正防止にあり、「捏造、改ざん、盗用」だけが不正行為とするものでない。また、ガイドラインは科学の全体を対象にしていることと、理系分野に不正行為が多い現状を考慮しているので、文章が文系の研究としては馴染みにくい。そのため、それを補うかたちで日本学術振興会が上記の小冊子を作成し、ガイドラインの趣旨に基づいて概要やポリシーを平易に解説している訳である。最も大事な問題なので、それも以下に引用するが、ガイドライン、小冊子が強調する態度は、研究活動の内容の誠実さや研究者の社会的責任である。

4 科学と社会、科学者の責務―公正な研究と科学者に求められていること
 「科学者には、真理の探究である研究活動を誠実に行う責任がありますが、科学と社会の関係がより緊密になっている中にあっては、社会からの信頼と負託を得た上で、科学の健全な発達を進めることが不可欠です。そして、このためには、社会的な理解を得られるよう、科学者自らが研究活動を律するための研究倫理を確立する必要があります。」(以上、「小冊子」)
「科学者は,自分が生み出す専門知識や技術の質を担保する責任を持ち、さらに自分の専門知識、技術,経験を活かして、人類の健康と福祉、社会の安全と安寧、そして地球環境の持続性に貢献する責任を持っています。このため科学者は、常に正直かつ、誠実に判断、そして行動し、自分の専門知識・能力・技芸の維持向上に努め、科学研究によって生み出される知の正確さや正当性を科学的に示す最善の努力を払うことが求められます。」(以上、「小冊子」)
 「科学研究の不正行為はあってはならないものであり、科学者は、責任ある研究を実施し不正行為を防止できるような、公正を尊ぶ環境の確立と維持に向けて貢献することも自分の重要な責務の一つであることを自覚し、―中略―科学者は、他の科学者の研究成果や業績を正当に評価し尊重することが必要です。―中略―一方で、自分の研究に対する批判には謙虚に耳を傾け、誠実に建設的な意見を交えることが求められます。」(以上、「小冊子」)
 「日本の科学が国内外からの信頼を確保して世界に貢献していくためには、何よりも研究における誠実さを確実なものにしなければなりません。そのためには、各研究機関において、研究倫理に関する研修や教育を行い、あらためて誠実な科学研究についての理解を深めることが求められます。―中略―科学者自身が自律的に研究倫理の確立に取り組んでいくことこそが、科学への信頼を勝ち取り、研究活動を萎縮させることなく、科学を健全に発展させることにつながるのです。」(以上、「小冊子」)
その文章のキーワードは、「公正な研究、相互批判、研究倫理、研究倫理の研修や教育」などである。特に、研究倫理の研修や教育の必要性を提言し、その上で小冊子では公正な研究として共有すべき価値を、次のように記している。
・研究の誠実性
・研究実施における説明責任
・専門家としての礼儀および公平性
・研究の適切な管理(以上、「小冊子」)
 それらと考古学との関係については、「科学を考古学に、科学者を考古学者に」、置き換えて読み取り、内容を理解しなければならないのは言うまでもない。
文部科学省では、ガイドラインの趣旨の徹底を図るために、科学研究と係わる公共機関、法人、民間を問わず全ての業種のコミュニティに対し分野、業種の実態に応じた「倫理綱領」を定めるように促し、それに応じて各学問分野が「倫理綱領」を策定している。考古学でも、日本考古学協会が定めていることは周知のとおりである。しかし、抜粋のとおり綱領の内容は抽象的、形式的で研究倫理の研修や教育が含まれず、ガイドラインを熟読していないように思われる。ガイドラインは、研究の大義だけでなく不正防止の具体策を求めているのである。
 補足:日本考古学協会の倫理綱領(抜粋)
 「(7)不正行為の禁止 日本考古学協会会員は、調査・研究の遂行及び成果発表の際に、資料・記録のねつ造・ 改ざんや、成果の盗用等いかなる不正行為もしてはならない。」

第3節 「研究不正行為」と「好ましくない研究行為」

 研究の不正行為とは、「捏造、改ざん、盗用」である。しかし、それだけを指すものではなく、誠実で公正な研究と不正行為との狭間にある、研究の信頼性を侵害する「好ましくない研究行為」がある。これが、国内外のどの分野でも問題になっているのである。
 それについて、日本学術振興会の小冊子ではアメリカ科学アカデミーの綱領を引用し、次のように説明している。 
 好ましくない研究行為
・重要な研究データを、一定期間、保管しないこと
・研究記録の不適切な管理
・論文著者の記載における問題
・研究試料・研究データの提供拒絶
・不十分な研究指導、学生の搾取
・研究成果の不誠実な発表(特にメディアに対して) (以上、「小冊子」)
 それらは、全分野に共通する最大公約数の態度を規定しているものである。その「好ましくない研究」とは、研究の不正行為の「捏造、改ざん、盗用」とまでは言えないが、それに等しい公正と言えない研究を指す。例えば、事件、犯罪を防止するためには、それを生む要因の分析と対策が最大の防止策になる。
 考古学の「好ましくない研究」は、遺物、遺構に対する客観的に説明できない実証性を欠く想像的な解釈論に多い。文系の宿命として、或る一つの事実は、多様に解釈できる。異論が生じると見解の相違にでき、多様な事例の我田引水、自説に都合よく解釈したり、データ操作が行われていることもある。前期旧石器捏造では、写真撮影、実測図等の発掘記録が無くても歴史叙述するという「好ましくない研究」が行われていた。
 三内丸山遺跡の場合、前期旧石器捏造の石器を埋めるという物理的な捏造と違う内容だが、「データの客観性」、「論理の実証性」、「説明責任」などと乖離する「確実でないデータによって研究結果等を作成する」という意味で不正行為の定義にある「捏造」にあたると考える。
 誠実で公正な研究と不正行為の内容は、各専門分野によって異なる。したがって、その「研究不正」、「好ましくない研究行為」の具体的な内容は分野の実態に応じて判断されることになるが、「好ましくない研究行為」を行動規範として「小冊子」で取り上げたことは評価されよう。上記の六項目の他に、考古学分野が独自に試行錯誤し、「好ましくない研究行為」を具体的に考える必要がある。
 「研究不正」、「好ましくない研究行為」の具体的な事例内容を挙げることは、様々な問題があり非常に難しい。小冊子にある上記の「公正な研究」の中で指摘した相互批判によって矯正する他に手が無いのだが、「好ましくない研究行為」が実に多いことを考慮すると、放置すればそれが横行することを許してしまう。
 特に、上記六項目のうち、「研究試料・研究データの提供拒絶」、「メディアに対する研究成果の不誠実な発表」は、前期旧石器捏造事件に関連して行われていたし、三内丸山遺跡でも同様である。資料を見せない行為の話はよく聞くことで、考古学では多忙などを理由に古い体質が相当に温存されている。

 第4節 研究不正行為への対応

 ガイドラインでは、競争的資金(科研費)に係る研究活動における不正行為に対応する方法として、第三者からの告発等の受付、告発者と被告発者の保護、不正行為と認定された者に対する資金配分機関の制限措置などについても細かく定めている。
 その審査手順は、告発等の受付―告発等に対する調査体制・方法―告発者・被告発者の取扱い―調査―認定(不正行為の疑惑への説明責任、不服申立て、調査結果の公表)―告発者及び被告発者に対する措置―不正行為と認定された者に対する資金配分機関の不正行為に係る措置(競争的資金の打ち切り、資金申請の不採択、資金の返還、資金の申請制限)などである。
 その中で、対応措置(ペナルティー)は次の者が対象になる。
  それを要約すると、①:不正行為があったと認定された研究に係る論文等の、不正行為に関与したと認定された著者(共著者を含む。以下同じ)、②:不正行為があったと認定された研究に係る論文等の著者ではないが、当該不正行為に関与したと認定された者、③:不正行為に関与したとまでは認定されないものの、不正行為があったと認定された研究に係る論文等の内容について責任を負う者として認定された著者、である。つまり、捏造の場合、①は直接関与、②は間接関与、③は関与疑惑、である。その文では、「論文等」、「著者」と記されているが、科研費では研究活動の全体が当該するはずである。前期旧石器捏造事件では、検証報告書に記された第一次、第二次、第三次関係者が当たると思う。
 それらに当該すると、競争的資金(科研費)の申請制限が規定されており、①、②が2年から10年、③が1年から3年と定められ、その間は科研費の申請ができない。その他に、科研費の研究不正行為が認定されると、研究者生命だけでなく所属機関にも科研費の返還などのペナルティーが課せられる。
 前期旧石器捏造事件に係る発掘調査には、公的資金の科研費が投入されている。それにも係わらず該当者がいないのは理解できないが、前期旧石器捏造事件に対する日本考古学協会の対応は、この問題と関係すると思う。上記①から③に多くの考古学者が係わっており、研究不正行為が認定されると考古学者が一網打尽になって科研費を申請できなくなるどころか、考古学が事実上崩壊することになる。それを防ぐために、協会は上記①の捏造を藤村新一だけに負わせ、彼の個人的な功名心によって引き起こされたと認定する他になかったと思われる。藤村の告白、状況証拠では、②と③に多くの考古学者が当該すると思うが、直接的な関与を特定できないため不問にされた。法の下の平等と言えないと思うが、道義的責任は免れない。
 前期旧石器捏造事件と科研費、地方公共団体の補助金の使用の仕方に、疑念がある。科研費は、研究機関等に所属し研究者番号が無ければ申請できないが、協会での研究発表では藤村新一が連名になっている。しかも、発掘調査の報告書が作成されていない。そして、明らかに捏造であったにも係わらず、不正研究と捏造検証に上記の措置が適用されず、検証発掘に協会の持ち出しが無く科研費が投入され、公費の二重使用が行われている。

 第5節 研究倫理教育の必要性

 1 考古学の研究倫理教育の必要性
 研究倫理の研修や教育活動を行うために、具体的な事例を挙げて議論しなければ空文句になる。研究の不正行為が科学者の個人や組織の事情に負うことが多いため制度は必要だと思うが、倫理綱領を策定するだけでは不正が無くならない。不正が悪いことくらいは誰でも分かる話なので、精神論だけでは不正防止として無意味に等しいことも現実である。だから、罰則規定を含め、不正防止対策が必要である。
 ガイドラインでも小冊子でも、研究の不正行為を自主的に防止するための研究倫理教育の必要性を訴えている。国際的に日本の社会秩序や日本人のモラル意識が高いと評価されるのは、義務教育の段階から学校で道徳の授業を行っているからである。それと同じく、「鉄は熱いうちに打て」のことわざのように研究倫理教育のプログラムを考古学専攻課程のある大学の教育カリキュラムに独立科目として組み入れて組織的に教育行うことが有効である。そのためには、研究の倫理教育を学問の体系として確立する必要性がある。
 ガイドラインでは、不正行為が起こる背景に成果主義、研究現場を取り巻くポスト獲得競争を挙げ、不正防止を研究者個人の資質、自律だけに求めるのでなく、研究者コミュニティ、大学・研究機関全体の問題として受け止め、構造的、組織的に研究倫理教育を行う必要性を提言している。
 特に、研究倫理教育に関して、ガイドラインでは「教えるべき指導者の中にはその責務を十分に自覚していない者」や「結果を出すことを最重要視する考え方に傾き、研究倫理や研究プロセスの本来のあり方を十分に理解していない者が存在する」と記し、教育する側の問題を指摘している。つまり、研究活動の本質を理解し研究倫理を身に付けさせるためには、研究者コミュニティの「指導的立場の研究者に対して、研究倫理等の教育を徹底し、―中略―大学・研究機関が組織として取り組む」ことや「大学院において、研究活動の本質や研究倫理についての教育プログラムを導入すること」を求めている。以上のことは、考古学にも当てはまるであろう。また、「研究分野が細分化し、各研究者の専門性が深化し、研究組織の中で研究活動の本質や研究活動・研究成果の発表の作法ともいうべき決まりごとに抵触するような行為が見逃され、それが重なって、重大な不正行為につながることがある」とか、倫理教育が「学問の自由を侵すものとなってはならず、大胆な仮説の発表が抑制され、研究を萎縮させてはならず、不正への対応が研究を活性化させるものであるという本来の趣旨を忘れてはならない」ことも付言している。(以上、「 」はガイドラインによる)
 研究倫理についての教育プログラムの導入は、既に他の分野では行っていることであり、問題は文系の考古学分野である。考古学専攻の講座がある大学で、教授の指導の下に次世代を担う若人の感覚を取り入れ、「考古学倫理」に関する調査研究が必要である。考古学における研究倫理の教育プログラムの導入は、事例教材がたくさんある訳だから、考古学研究と同様に時間をかけて試行錯誤しなければならない。
 考古学専攻講座がある大学に、「考古学倫理」、「倫理考古学」の科目がない。
大学生にもなったらその程度のことは弁えているはずだ、という意見もあろうが、考古学倫理は考古学専攻必須科目に値するであろう。それを認識する上で大事なことは、ガイドラインの研究倫理の意義と共に「公正な責任ある研究」の対極にある「研究の不正行為」、「好ましくない研究行為」の多様な事例を日常的に議論することである。
 学問にはさまざまな分野があり、社会や科学技術の進展に直接に接する理系分野ではそれぞれの独自性に応じて、倫理綱領、ガイドラインのマニュアルが作成されているが、考古学や文系の分野では対応が緩いと思われる。その絶好の機会が前期旧石器捏造事件であったが、それを逃した。教訓を忘れかけた頃に東日本大震災のような災害が起こる訳で、何時かまた同じ不正事件が起こるだろうから、常日頃からこの問題を考えることが肝心である。

 2 人文系、社会科学系の考古学分野の研究倫理(写真2)
 人文系、社会科学系の分野でも、それぞれの研究機関において独自な行動規範を作成しており、「人文系、社会科学のための研究倫理ガイドブック」(眞崎俊造ほか編二〇一五)の著作がある。その中で、日常的に直面することが多いのが「好ましくない研究行為」であり、それが研究の世界に負の影響をもたらしていると指摘している。さまざまな事例を挙げているが、原則論以外では考古学に当てはまる事項は少ない。というより、当てはまらないと言ってよい。したがって、独自な歴史学系のガイドラインないし研究倫理ガイドブックが必要だと考える。
 例えば、上記の当書で、「不正を行った科学者は、注意されたり告発されたりすると反論し逆批判する」(山崎茂明二〇〇二)という一文が引用されている。考古学の場合、皮肉を込めて言えば、反論せず無視するのである。その常套句が、「見解の相違」である。
 また、研究不正の危険因子として、「不正行為による研究を発表する研究者は、それを重大なものと考えておらず、このような人々への防御策はない」(山崎前掲書)という指摘は、まさに当を得ている。しかし、それでは無放任になり、津軽弁にも「馬鹿に付ける薬が無い」という諺がある。馬鹿とは、日常生活における愚か者の意味だが、これには呆れて見放すことの他に、社会の一員として受け入れるために愛情を込めて道徳を説諭し社会の安寧を図る、という逆説的な二つの意味が込められている。だから、実際は「薬」があるのである。つまり、防御策はいくらでもあるのである。そのために、根気よく不正行為を指摘、説得し、改めるように仕向ける他にないのである。その手段が、批判、批評である。
 人文系、社会科学系の不正行為に対する指摘の難しさが、眞崎らが言うように「疑わしいグレーゾーン」の存在である。それは分野によって異なり机上論で議論できないので具体的に例を挙げて考古学が独自に定義づけ試行錯誤するほかになかろう。眞崎らの当書では、それを「研究倫理学」として責任ある研究活動の公正性を規定する正直、正確、客観的な道徳的原理、さらに藤垣裕子(二〇一〇)の論文を引用し国民に対する説明責任として「科学者共同体内部を律する責任」、「知的製造物に対する責任」、「市民からの問いかけへの応答責任」などの社会的責任の必要性と自覚を説いている。
 それがガイドラインに言う国民の信頼と負託に答える義務を負うという意味であり、具体的には考古学が考えなければならない。しかし、自己と無関係な考古学研究の「不正行為、好ましくない研究行為」を考えることは、誰でも馬鹿らしく苦痛である。
 考古学には、実証的な論文と想像創作の擬似論文、歴史叙述がある。後者を否定するために無駄な労力がいる。批判したところで研究の進展に役立たず、大方は放置する。それを逆手にとって、学問の自由の下に大手をふるってまた作文する。その多くは、論文というかたちを取らない出版物である。しかし、山崎氏が言うようにそれを防ぐ手立てがないが、社会的責任の自覚を欠く事例の批判を個人的な問題にしてはならない。出版社の編集者に社会的責任の自覚を説いても、商業的出版を止めることはできない。近年、嘘とまでは言えなくとも真実でない古代史・考古学の弁証法的な歴史叙述が横行しており、そういう考古学の実証的でない創作文、本は規制できないので、考古学者が理由を挙げて根気よく批判、批評するほかないのである。
 そのためには、ガイドラインの「研究の社会的責任」や「研究活動の本質や研究活動・研究成果の発表の作法ともいうべき決まりごとに抵触するような行為が見逃され、それが重なって、重大な不正行為につながることがある」という一文に、光明を見出したいと思う。また、藤垣裕子氏の国民に対する三つの責任という観点も考慮する必要がある。
 建て前論、精神論だけでなく、歴史学系として、古代史・考古学ブーム、埋蔵文化財行政上の問題を抱える考古学分野には、他の歴史学分野と提携しつつ、特に考古学・考古学者のための研究倫理のガイドブックの作成が必要である。もはや第一の捏造の発覚時に行うチャンスを逃したが、「公正な研究」と表裏の関係にある考古学の「不正な研究」について捏造事件などを反面教師に奥野正男(二〇〇四)らの問題提起を参考に考えるべきであろう。それは、決して難しい話でない。人文系、社会科学系の分野で、これほど具体的でシビアな社会的責任に関する問題を抱えている考古学分野がガイドブックを作成すれば、人文系、社会科学系、歴史系分野のモデルになるはずである。

 3 「考古学倫理」のカリキュラムの必要性
 考古学専攻の講座がある大学で、「考古学倫理」のカリキュラムが組まれていない。考古学、埋蔵文化財のバイブルと言える「文化財保護法」とその関連法規でさえ、形骸的に教えているだけである。我が国の「文化財保護法」は、世界の文化財行政のモデルになる優れた法律なので、それとガイドラインを学び遵守すれば、「考古学倫理」の最高のテキストになる。
 私が考える「考古学倫理」に関するカリキュラムとは、「考古学倫理」、「公正な考古学研究」、「考古学研究の不正行為、好ましくない研究行為」、「社会的責任」について、授業として考える、教えるというものである。その「考古学倫理」の中で重要な位置を占めるのが、考古学の「社会的責任」の問題である。そのために、「考古学倫理」を体系づける必要がある。
 大学では、教養課程に考古学概論の科目があり、専門課程に実習、演習、特殊講義、卒論指導などがあり、「考古学研究の正しい方法論」を教えている。その何処かの科目で「考古学倫理」、「公正な考古学研究の有り方」を教えることは可能だが、それ以外の研究上の不正行為、好ましくない研究行為の反面教師の事例は、教えるまでもないという意見が出よう。
 しかし、現代の行政において埋蔵文化財の専門職が置かれている発掘調査、遺跡の保護、保存、遺跡復元などの考古学事情は多様である。あるいは、政治が絡む町おこし、観光化が優先され、発掘調査の公正性が捻じ曲げられることも少なくない。考古学の絶対的な歴史叙述が存在しないことを盾にする巧妙な歴史叙述に好ましくない小説もどきの叙述が行われている。それらは、考古学と社会が接する社会的責任、研究の公正性などの現実問題である。その現実を見れば、現状の授業だけでは不正防止や社会的責任のためにあまり役に立たないのである。
 考古学の守備範囲は広く、遺跡、古墳などの保護、保存運動、遺構、遺跡の復元、公園化、古代史の副読本、地域の社会教育や学校教育への普及活動などの事例は生きた教材になる。絶対的な歴史叙述が存在しないことを盾にする巧妙な歴史叙述の問題を、学術的な教材にして批判、批評する試行錯誤の訓練が必要である。東日本大震災における液状化、津波の調査に、考古学も一役買っている。こうして、考古学は社会的責任を果たしてきた。そういう社会に対する考古学の役割を体系的に論じるカリキュラムが、社会に貢献する考古学の独自性を考慮した社会的責任、研究の公正性、考古学理念の考古学倫理である。

 第6節 考古学の「好ましくない研究」ほか

 1 考古学の「好ましくない研究」、「好ましくない発掘調査」の問題
 日本学術振興会の小冊子で「研究の不正行為」と共に「好ましくない研究」と論じたのは、「好ましくない研究」が多いからである。
 ガイドラインでは「好ましくない研究」を、「研究活動の伝統的な価値を侵害する行為で、研究プロセスに有害な影響を与える」と説明している。研究、学問は巧緻なものであり、根拠のない自由な解釈が「研究プロセスに有害な影響を与える」ことを自覚しなければならない。その伝統的な価値とは、考古学者たちが長い年月を掛けて議論し築き上げた定説であり、研究プロセスは実証主義の方法論である。定説を相克することが研究そのものであり、新説や研究の進展を否定するものでない。しかし、根拠なく定説を否定したり、研究史を踏まえず実証主義でない解釈研究がある。縄文文明、縄文都市がその類である。
 「考古学の好ましくない研究」とは、①発掘資料(遺物、遺構)と発掘データ(実測図等の記録)の事実を創作的に解釈すること、②存在しないデータなどによって誇張した研究成果を作成すること、③数多ある事実の中から、自分、自説に都合よく我田引水し証明無き研究成果(論文、著作)を作成すること、④虚偽、拡大解釈の内容があること、であると考える。
 それらは、捏造とまでは言えないので、微妙な内容を含み立証することは非常に難しい。その手の著者、著作は、読者層の対象が研究者でなく一般大衆であり、平易に解説し楽しく読んでもらえばよい、と言い逃れするであろうが、問題は資料と叙述内容の事実関係である。その場合でも、言論の自由を盾に見解の相違、水掛け論になろうからモラルを問うしかない。
 考古学に専門分野がある訳だから、学問の自由の盲点を突いて専門的な研究履歴のない者が一般書を読んでまとめる叙述行為は慎みたい。それには、読まない、買わないという以外に対策がなく良識に訴えるだけだが、研究の不正行為、捏造の温床を排除するために考古学の研究者コミュニティが議論する余地があろう。「好ましくない研究」を見逃さないために、実証主義でない事例を議論のまな板に乗せ批評し試行錯誤する必要があると考える。
 その他に、「好ましくない発掘調査」、「好ましくない発掘報告書作成」がある。
 前者は、粗い発掘、思い込み発掘、仮説に合わせる発掘、住居跡など遺構の曖昧な年代決定など、意外に多いと思う。医学では手術に失敗すると命に係わるが、考古学では発掘を失敗しても死ぬ者がいない、と揶揄されている。発掘は共同作業なので、グレーゾーンの発掘調査は不正行為の温床になりチーム全員が一体になって相互批判し切磋琢磨する必要がある。
 後者に、記録保存を形骸化した手抜き報告書、不勉強な土器の分類などがある。
 それらには、専門職の力量の発掘技術不足、発掘調査や報告書作成に対する意識の問題もあるが、過重な発掘、期間を押し付ける教育委員会側の問題もある。

2 好ましくない研究行為―歴史叙述の小説的、想像・想念考古学
考古学研究と学問の自由は、保証されなければならない。しかし、それは、研究や立論の方法が実証的に行われているという前提の下に保証されるものであって、小説的な想像創作は排除してゆく必要がある。小説的想像創作の代表例が、岡村道雄の「縄文の生活誌」である。
 歴史叙述の小説的な解釈に、ア「事実が存在しない解釈」、イ「事実が存在しても実証的でない解釈」、ウ「誇張拡大解釈」などがある。それらは、「縄文奴隷説」、「縄文階層(階級)論」、「縄文文明、縄文都市論」に代表される。
 先史と言え、社会組織、社会構造は、日本の民族、国家観の歴史認識に係わる重要な問題である。それが、縄文考古学研究の最大の弱点であり、二十一世紀考古学の最大の課題になるだろう。皇国史観のような戦前の轍を踏まないために、巧緻な研究に努めねば世界から相手にされない事態に成り兼ねない。だから、軽率な研究、発言をしてはならないのである。
 アに関連して、小林達雄(一九八八)は、弥生時代の「魏志倭人伝」の生口(奴隷)の記事が縄文時代に低い階層があった名残だと述べている。しかし、それを示す考古学資料は存在しない。弥生時代に存在したから縄文時代にも、という論法は論理の飛躍である。また、世代が違う死者の合葬墓の事例をインディアンの民族誌を引いて身分の高い子供が死んだ時に乳母を途ずれにした殉葬と述べているが、DNAの証明がなければ唯の想像である。奴隷と言う以上は階級論であり、縄文時代の歴史的な背景に対する歴史認識においても誤りがある。
 社会構造は、縄文、弥生時代であっても軽々しく思い付きで語るものではない。ましてや縄文時代に奴隷がいたとするなら考古学的に立証しなければならない。立証していないという意味で、「好ましくない研究」にあたる。
 イに関連して、渡辺仁(一九九〇)の縄文式階層化論の階層は、富者層と貧者層の貧富差と述べている。それは事実上の階級であり、「縄文式階級論」と言うべき詭弁である。その考え方の規準に生業と信仰・儀礼の分化を挙げ、階層化の結果生じる貧富差は、生業と神々との関係の深さの差を意味し、弥生農耕の文明社会の経済力や権力と本質的に違うと述べている。しかし、階層の発生要因を信仰に求める考え方は階層の一面に過ぎず、狩猟採集社会の信仰の儀礼権を握る老人退役狩猟者のエリート長老富者層が社会を支配する、ということを考古学的に証明できない。渡辺が引用する民族誌は十八世紀以後のものであり、シベリアの民族誌では、信仰・儀礼を司るシャマンは富と無関係な宗教人である(ウノ・ハルヴァ一九七一、鈴木克彦編二〇一四)。渡辺の所論は、自説に都合よく資料を我田引水して解釈する演繹法である。
 縄文時代の人々は、狩猟採集社会の宿命として弥生、古代と比較して貧窮していたはずである。自然のサイクルに応じ生業する食料は一冬を越す程度で、富として腐朽する動植物食料を蓄える必然性が無い。翡翠玉などの絶対量から、貧富の階層(階級)を実証できない。翡翠玉なら縄文晩期のクリエイティブな亀ヶ岡文化(鈴木克彦編二〇一八)の玉作技術や集団(ソダリティ)の存在から、人々の優れた技術力、英知の文化力を評価するべきである。
 考古学的事実に土器、土偶などを挙げて論じているが、型式学的、編年学的研究と乖離し、半ばそれを否定的に見る決定的な誤りがある。階層を論じる上で重要な考古学的事例が集落や墓だが、大小の集落があっても分散し、大きな集落であっても中央集権的な集落の存在を証明できない。玉を出土する墓と出土しない墓がありそれを貧富差とみなすが、北日本では前者が約17%を占め、それは玉を嗜好する習俗文化である(鈴木克彦二〇〇八、二〇一一)。渡辺の所論は、縄文時代の草創期から晩期への年代差、発展史を考慮していない。考古学では、中期と晩期の事例を混同して叙述することはない。渡辺の所論を全て否定するつもりはなく縄文考古学者が学ぶべき着想もある。反面、渡辺はもっと考古学に学ぶべきであった。
 階層や格差は、狩りや社会を円滑に運営する生活上に必然的に生まれる。それは、人が人を支配する貧富の階層でない。社会的格差、階層は、玉を出土する墓と出土しない墓の二項対立的な解釈でなく、縄文時代の社会全体の社会構造を認識した上で実証的に証明するものである。決定的な誤謬は、今村啓爾(前掲書)も言うように、説明の内容は階級、表現が階層という階層と階級の概念の曖昧さにある。考古学では弥生時代の階級の概念に定説があり、考古学をベースに階級を論じる以上、縄文時代であってもそれに従って論じなければならない。縄文時代に階級があったと言えば、定説への挑発になるのでそれを避けて階層と表現したと思う。
 階級は、人が人を支配する体制を社会組織に組み入れ、富を恒常的に特定の人物に集中させる仕組み、社会構造である。その存在を縄文時代に証明できれば、縄文に階級があってもよい訳で、その場合は階層でなく縄文式階級とするべきである。それを階層と表現するのでは、学問の体系がなし崩しになる。社会構造は、国家の歴史認識に係わる問題だということを自覚して論じるべきである。それは、どの縄文階層論者にも共通して言える。渡辺の縄文階層論は、多くの縄文考古学者に影響を与えている。しかし、渡辺が民族誌を駆使して説明した内容は泡沫扱いで、階層の用語だけが使われている。
 ウに関連して、縄文文明、縄文都市論は、梅原猛(一九九〇)、安田喜憲(一九九〇)が日本の縄文時代の文化(縄文文化)を文明とする解釈である。文化と文明の違いは中学高学年で教えるが、考古学や教科書では縄文、弥生時代の文化を文明と表記しないので、考古学の定説と教科書を無視した考えである。それは捏造というものではないが、捏造はガイドラインに言うところの「学問の定説を無視した考え方」によって起こるという意味で、「研究プロセスの誠実さへの信頼を損なう」、「研究活動の伝統的な価値を侵害する行為で、研究プロセスに有害な影響を与える」という、「好ましくない研究」にあたる。
 梅原らの文明を議論すれば見解の相違としてエンドレスになるが、ギリシャ・ローマ文明と同様に縄文文化を縄文文明とする教育上の概念、ルールを無視した考え方は、文化と文明の定義に対するコンプレックス思考の裏返しであろう。縄文文化は文明の概念に値せず、ギリシャ・ローマ文明と縄文文明を同等、同質に扱うことはできない。ましてや、三内丸山遺跡を縄文文明、縄文都市とする認識は根本的に誤りである。
 梅原、安田の縄文文明論は、ひと昔前の京大系の根津正志(前掲書)の概説書を嚆矢にするもので彼らのオリジナルな考え方でない。考え方が、縄文考古学者と根本的に異なる。しかし、縄文考古学者は、三内丸山遺跡などを教科書や国内法の「文化財保護法」基づいて捉えている訳で、門外漢の梅原、安田が勝手に言う話でない。ましてや、三内丸山遺跡が世界の文明の発祥とはとんでもない話である。
 次に、空想的解釈の反省すべき個別的事例を挙げる。それらについては、見解の相違だと反論されるかもしれないが、誹謗中傷するものでないので反論は歓迎する。
 北海道の縄文後期から晩期、続縄文期に、周堤墓群など複数の土坑墓群の遺跡があり、その土坑墓に内部から多くの副葬品を出土する場合と出土しない場合がある。それらに対し、瀬川拓郎(一九八三)が、周堤墓群や複数の土坑墓群を血縁関係の集団、副葬品の有無を格差、首長の存在と解釈する。問題は、血縁関係とする社会組織、貧富の格差、首長の空想解釈と証明である。周堤墓群は複数の周堤墓で構成され、各々1基から10数基の土坑墓が存在するが、その数はまちまちである。周堤墓の中央に土坑墓が在る場合があり、それを首長とみなしている。単位集団を形成しているとしても、複数の土坑墓群の同時性、時期差が証明されていないので、一律に複数の土坑墓群を血縁関係と解釈するための考証が必要である。
 石鏃、漆器、玉等の副葬品の有無、多寡が格差を表していると単純に考え、石鏃が多い被葬者を有能な男性の狩猟者や首長とか富裕層としている。それは、地域の習俗文化や葬墓制の特徴、国内全体の翡翠玉などの流通、玉作のソダリティーを考慮しない古い考え方である。石鏃の副葬を男性の首長、漆器を女性、では玉はどちらであろうか。文意では男性首長らしい。どれも、理由が説明されていない空想である。縄文集落の構成員の男女や生活、社会構成上の役割は、常識的に同等であると考えるが、男性だけが石鏃、玉を副葬する理由、女性だけが漆器を副葬する理由、副葬品の無い形で葬られることを証明、説明する必要がある。それは、副葬品の多寡、見た目の印象判断であり、北海道での縄文文化の造墓、葬墓制の発展が考慮されていない。土坑墓の内部から出土する副葬品の層位的な出土状態に、生前の所有物だけでなく奉納、供献品が多い。そういう層位的な出土状態を観察して立論するべきだが、石鏃が多い被葬者を男性の狩猟者、首長、富裕層などと考えるのは戦後に流行った旧説である。北海道ではほとんどの墓から多量の石鏃が出土し、男性の墓だけになってしまう。
 北海道では、縄文早期の段階から磨り石、石皿などの道具類、時には小礫が副葬され(鈴木克彦二〇一四、遠藤香澄二〇一四)、遠藤は送り儀礼と関連する可能性を指摘している。送り儀礼は、アイヌ文化など北海道に多くみられる習俗文化だが、北海道だけでなく縄文文化に通底する縄文文化の思考、習俗の体現とみるべきである。内容は、階層の名を借りた詭弁の階級論で、それが北海道だけに萌芽することはなく国内全体を考慮して論じるべきである。
 大島直行(一九八三)の空想小説は論外である。先ず表紙に掲載された妊娠女性の全身と下腹部裸体は、必然性と品性がなく考古学ポルノである。土偶にみられる正中線は、普遍的な文様でない。部分だけを強調し解釈するのは、邪道である。北海道に男性の土偶が出土するのに何故女性の妊婦裸体なのか、趣味であろうか。早期の乳房状の尖底土器を月の雫の表現とは、皆の笑いものになっている。創作も度を超すと、不正行為になることを知るべきである。
 ところが、二〇一八年七月にNHKが「歴史秘話ヒストリア」で、大島の著書と同様な妊婦下腹部を放映した。放送倫理規定の公序良俗に抵触する可能性が高い。NHKに私の考えを送信したら回答があり弁解はしていたが、制作ディレクターは処分ものである。
 出版社(寿郎社)にも、全裸女性下腹部を掲載する必要性を問い合わせたら、「あの表紙は美術書のヌード絵画と同じです」という珍回答であった。掲載する必然性を問うと、電話を切られた。大島の表紙は土偶を研究したことがない研究履歴から、学問の自由を掲げた考古学者モラルの欠如、興味本位の学術ポルノと言ってよかろう。
 余談だが、北海道では瀬川と大島を、考古学者でなく小説家だと言う考古学者もいる。その内容を見れば、当然の評価である。考古学の「品位と節度」は、守らなければならない。
 私の研究テーマに重なる一部の事例を取り上げたが、それは氷山の一角に過ぎない。誰もが飛びつきやすい土偶は、近年の縄文ブームに乗りビジュアルで考古学遊びのコマーシャリズムの対象になり、研究履歴の無い者が感想文、創作で語る風潮がある。反省材料である。

 第七節 メディアの考古学に係る「好ましくない放送」の事例

 1 メディア、出版の倫理規定
 報道機関、出版社にも倫理規定がある。その趣旨は、公序良俗を侵害するものであってはならないというものである。NHKの「放送現場の倫理に関する委員会」によると、「放送は、社会に受け入れられる倫理や価値を反映していなくてはならず、品位と節度を心がけ、視聴者に不快感や苦痛を与える内容・場面は排除する必要がある。青少年に及ぼす影響については、慎重な配慮が求められる。性の取り扱いおよび表現については、茶の間にそのまま持ち込まれるという放送の性質上、また、公共放送という立場から、品位を失わないよう細心の注意を払う」とある。また、放送倫理規定に、人物の全身裸体、性描写が禁止されている。
 「不快感や苦痛」は人によって異なるとしても、公共の番組の制作は女性下腹部を善良な家庭、青少年の居る茶の間に持ち込むことの必然性を、説明できるものでなければならない。それは出版物でも同じである。
 メディア、出版の倫理規定については、恐らく文部科学省のガイドラインに沿っていると思われ、概ね社会通念の範囲にあるので省略する。

 2 NHKの考古学報道、放送番組への疑問
 上記「歴史秘話ヒストリア」以外にも問題がある。軽薄な菊池正浩がNHKで関与、行った誤りに、幾つかがある。それは、個人攻撃でなく、NHKの役割を問うものである。その一つは、当時のNHKの顔とも言える森田美由紀アナウンサーを六本柱建物復元に載せてショー化し、観光地のように現地中継し全国放送したことである。
 当時、三内丸山遺跡が大きく報道されていたので、話題性はあってもそういう報道は既に行われており、敢えてニュースとして現地から中継し復元建物にアナウンサーを立たせて放送する必要性はない。しかも、六本柱建物は歴史的な建造物でなく、現代の想定復元である。その復元に諸説と疑惑があり、客観的な事実を報道するニュースに当たらない。あたかも歴史的事実であるかのようにニュースで全国放送するのは、国民に対する印象操作になる。NHKの影響力を考えると、慎重に対処するべきであったと思う。
 二つは、当時の一世を風靡したNHKの国谷裕子キャスターの「クローズアップ現代」に、解説者として縄文文化の研究者としては素人の小山修三を採用したことである。制作に菊池の名があった。そのテーマは、縄文観を変えるとか、新しい縄文観であった。明快な「クローズアップ現代」はNHKの名番組で、私は森田アナウンサーと共に国谷キャスターのファンであったが、番組を見て啞然とした。縄文のテーマから見て縄文研究の素人の小山は相応しくない人物だからである。もっと適切な考古学者がいるからである。
 小山が「縄文時代」という本を書いているので、内容を読まず錯覚したのであろう。副題のとおり当書は縄文時代の人口推定という問題意識のみが評価されたが、内容は考古学者の評判としてかんばしくない。細かい問題点は省くが、人口推定におけるジャストモーメントという考古学の基礎的な考え方に問題があり、縄文時代の社会、文化の内容の記述がない。人選はNHK側の自由裁量の範囲だと言うかもしれないが、公共放送の人選は公正で誰が見ても納得いくものでなければならない。縄文文化の研究には、国内に著名な考古学者が多い。それを差し置いて、縄文文化の研究に実績の無い小山を出演させることは不適切である。ましてや、新たな縄文観という番組の趣旨なら尚更である。この件は、仲間たちの間でも話題になった。当然ながら、小山の発言内容は物笑いであった。
 三として、菊池はディレクターなので表にでないが、番組編成を企画する。そういう者は、ジャーナリストとしての客観性と公共報道とは何か、という職業倫理を持たねばならず、考古学界の常識を公正に受け止めねばならない。しかし、彼は、別に記したように青森放送局時代に殊更に三丸情報を青森放送局の地域番組に採り入れ、公私共に三丸広報の御用役割を気取り個人と公人の仕事とのけじめが付いていなかった。その放送責任は、NHK自身にある。
 四は、別に記したとおり、ポルノ会社であることを知りつつ公共性が強いNHKの業務にジオラマを作らせ、反教育的会社のスコラを取り入れたことである。NHK始まって以来の珍事と思われ、倫理綱領から見て不祥事といってもよかろう。この問題は過ぎ去ったことだが、今後のために公共放送のNHKとして議論して欲しい。

 3 NHKの考古学放送倫理とは―堕落した考古学放送
 二〇一五年秋に放送されたNHKスペシャルの「アジア巨大遺跡」の番組で、アンコールワットや秦の始皇帝陵などと共に、三内丸山遺跡を取り上げた。それに対し巨大遺跡に相応しくないと考える理由を説明し、番組に取り上げた理由をNHKに問い合わせた。ご意見は承りますと言うだけで理由説明がなかったので番組担当者に電話を取り次いで欲しいと伝えたが、できないと言う。その対応はおかしい。放送された司馬先生の「街道を行く」の出演者、協力者なので自分の名前を名乗って抗議したが、オウム返しである。。NHKの番組制作には公共性として客観性が求められ、番組担当ディレクターに自身が制作した番組がテーマに相応しいかを自問自答し、自己の仕事に責任と誇りを持つべきであると言いたい。
 「アジア巨大遺跡」の番組に関連して、考古学関係の放送倫理について考えてみよう。
 アジア巨大遺跡に三内丸山遺跡が相応しいかどうか、そして放送内容の問題がある。4回放送されたので絶対的な評価でないとしても、視聴者はアンコールワットや秦の始皇帝陵などに並ぶアジアの四大遺跡と受け取るであろう。国内に大きな遺跡が数多ある中で、三内丸山遺跡を選択した理由が説明されねばならない。佐賀県吉野ケ里遺跡でも当該しない。理由は、遺構は弥生時代でも建造物が現代に復元されたものだからである。それより三内丸山遺跡の方が広いというのであれば、遺跡と集落を履き違えた考えである。
 NHKのホームページに、「巨大な六本の柱が並ぶ木造建造物や大型住居など巨大な集落の姿」と記されている。六本柱建物復元と集落の大きさが規準になっているので、この2点に絞って改めて説明する。六本柱建物は、歴史的な建造物でない。現代において青森県が主観的、観光目当てに復元した創作建造物であり、高さ、構造、屋根などに異論がある。決定的な問題は、古代寺院などのように実存する歴史的な遺産の建造物でなく、歴史の真実性がない現代の創作物だということである。集落の大きさは、集落概念を考慮しない創作であり、集落規模は遺跡全体の面積でなくジャストモーメントの住居跡の数と集落構成によって決定される。その立証ができていない致命的な問題がある。500人説の根拠も考古学的に証明できない。これで、どうして巨大建造物、巨大集落と言えるだろうか。
 アンコールワットや秦の始皇帝陵などは、絶対的な歴史的建造物の遺産である。国際的な評価が高く、何人も異論がなかろう。それを規準にすれば、三内丸山遺跡がそれと同等な評価ができるのか、もっと相応しい遺跡が国内に存在するのでは、という疑念が考古学者から当然起こる。NHKでは、そういう絶対的な評価をして番組を作ったのでないと言うだろうが、視聴者は秦の始皇帝陵などに並ぶ評価として、番組と遺跡を見る。また、三内丸山遺跡に世界遺産の問題があるので、それをNHKが側面から支援しようとした、と私は受け止めた。もしそうであれば、公共放送として中立性を損ねる問題になる。
 国内の歴史的な存在の古代建造物遺産なら、巨大前方後円墳の仁徳天皇陵や平城宮跡、東大寺大仏、五重塔の法隆寺などたくさんある。さらに、遺跡つまり集落の規模の広大さ、継続性を言うなら、大阪、奈良周辺の巨大古墳群群、奈良、平安時代から続く奈良、京都の古代町並みの規模が遥かに広大であり、奈良市内の古墳群、町並みは古墳時代から奈良時代を経て現代まで存続している訳である。それら国内の世界に誇るべき歴史的遺産を差し置いて、第二の捏造とされている三内丸山遺跡を取り上げることは不適切である。
 放送内容について、三内丸山遺跡の紹介を軸に持続可能な社会、文明論に言及し、縄文文化を理解していると言えない外国人研究者、民族誌の縄文土器の制作の謎を探る早稲田大学高橋龍三郎らが説明した。しかし、どれも縄文文化、縄文土器の真実に迫る内容でない。縄文土器作りに縄文文化の神話が秘められていることを、証明できない。青森県で中期の円筒土器の山形口縁部突起が岩木山を模したという考えもあったが、その手の類で趣味の範囲である。
 狩猟採集の持続可能な社会の形成云々は、シュメール都市国家文明と比較すれば世界史的に誇る話でない。考古学では文明社会を、弥生時代からとするのが定説である。番組では、芸術性の高い縄文土器や土偶などが、その文明論を根底から揺さぶると述べている。仮に、縄文土器作りに縄文神話が込められているとしても、何故それが文明でなければならないか、担当ディレクターは考古学を学び直して欲しい。文字を持たない縄文文化を、「文明」と認識することはできず、公共放送が「文化」と「文明」を勝手に解釈して放送するのは不適切である。
 放送倫理とは、NHKの放送倫理要綱のとおり事実、真実を客観的に見極め、定説に逸脱してはならず、説明責任を持つということである。
 「アジア巨大遺跡」の轍を踏まないために、NHKの古代史系、考古学系の番組制作に関する内部審査ができる考古学や古代史を専攻した大学院生を専門職員として、本局に採用することを提言したい。若い時に記者として専門的な取材経験を積み、考古学、古代史、文化財に関する教育番組の解説員に上げてゆけば、番組の正確性を担保できよう。NHKの原子力発電、東電や科学不正の巣といわれる原子力ムラの問題に青森県出身の水野倫之解説員の科学的な解説が分かり易いのは、専門の科学者と同等な科学知識を持ち素人に分かりにくい専門性の強い原子力問題を国民の目線で公正に解説しているからである。
 近年、第三の考古学ブームが起こっている。先史・古代の発掘事例が多く報道され、考古学関係の放送番組が多くなった。今や、その分野のセミプロの水準は、下手な考古学者以上である。また、NHKでは世界遺産も多く取り上げている。「保護、保存」という世界遺産の趣旨とは裏腹に、観光の視点で取り上げているように思える。国民へのNHKの影響力は、絶大である。国民が公共放送のNHKに期待するのは、ポピュリズム的に面白おかしく考古学、古代史を取り上げて解説することでない。プロやセミプロ、素人を問わず、「成る程」と思わせるような学術を踏まえた公正な放送である。
 余談だが、最近のNHKの番組は、余りにもタレント、お笑い芸人を多用しポピュリズムに流され過ぎている。国民が民放と違うNHKに求めていることは堅実性であることを弁え、NHKらしい昔の品位を保つべきである。

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