昨年の11月に沖縄に行ったこと 1

昨年2021年の11月、沖縄に行った。
早いものでもう5ヶ月、、、。
コロナ渦の波をかいくぐって、沖縄行きの目的は、当初はただひとつ。もろさわようこさんが沖縄におられるうちに辺野古に行く!ということだった。

沖縄は、2009年、2018年1月、2019年3月に続く4回目だ。過去のいづれの時も、もろさわ先生を訪ねたのであるが、そのどこかで、辺野古へ行くようにと言われていたのをまだ果たせていなかった。

でも結果は、志縁の苑のおかげでお知り合いとなれた方、Mさんのとても大きなご好意により、可能な限りの行くべきところに行けて、辺野古は一人で行った場合の何倍も貴重な機会となり、もろさわ先生にも直接お会いすることができた。

今回訪ねたのは以下のところ。

1「対馬丸記念館」

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11月22日夜、那覇に着いた。沖縄はまだ秋じゃないだろうなとは思ったが、ホテルに向かうモノレールの中は冷房だった。
翌日の予定は全く無かったが、ホテルについてMさんに電話をしたら、ホテルの近くに「対馬丸記念館」と「不屈館」があることを教えてくださった。
対馬丸のことは、7、8年前「婦人通信」という日本婦人団体連合会の月刊誌で知った。前回、沖縄に来た時、記念館の近くを通って、今度来たら行こうと思ったのに、すっかり忘れていて、Mさんの電話が思い出させてくれた。本当によかった。

23日は朝から「対馬丸記念館」へ。なんとなくレンタカーを予約してあったので、ホテルの近くだったが車で。(運転があまり得意でないので、返って迷ってしまい、相変わらずのやれやれな自分だった。)
記念館では改めて対馬丸撃沈事件について詳しく知ることができた。
記念館建設の目的は、対馬丸の悲劇を過去の歴史的事実にとどめることなく、二度とこのような悲しみを繰り返さないための学びの場でありたい、戦争に巻き込まれ、犠牲になっ子ども達のことを風化させることなく次の世代へ継承していきたい、とあった。また、パンフレットには開館時の宣言のようなものがうたわれている。

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今、見返すと5ヶ月前よりさらに心に刺さってくる。

「不屈館」にも行こうと思ったが休館日で行けなかったので、対馬丸記念館で結構長い時間を過ごすこととなり、「1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦」(1995年版)のDVDも見られることがわかったのでそれも視聴した。
アメリカの従軍カメラマンによる本当の戦争の記録なので、約1時間見るのは辛かったが、この映像も見ることを繋いでいかないといけない記録であると思った。慰安所の映像もあり、朝鮮半島から連れてこられた慰安婦の女性が数人写っていた。

沖縄戦の1フィート映像といえば、もう40年以上も前、大学生の頃に東京の渋谷で募金活動をしているのに出会った。1口1000円、高額ではなかったが経済的自立のない身での募金にためらいがあり、とうとう寄付出来なかった。そんなに気にすることはなかったのに、と今は思う。
それ以後、1フィート運動はどうなったのかずっと心にはあったが、あまりニュースや新聞で見聞きすることはなかった。それでもVHS時代に一度ビデオ版を買ったのだが、見ないうちにDVD時代になってしまい見そびれていた。

ついでに調べたところ1フィート運動は2013年に活動を終了していた。この頃また別のDVDが作られており、それは25日に「不屈館」で見た。少し柔らかな感じに編集されていた。
フィルム全体は沖縄県公文書館にあるらしい。
https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/business_diary/4975

沖縄県公文書館は、25日にMさんが乗っている車の中から指を指して教えてくれた。あっという間だったが、茶色い屋根が印象に残っている。

対馬丸記念館の厚いパンフレットを買おうとしたが、亡くなった子どもたちなど皆の写真が載っていたため、私には少し重すぎて買えなかった。ごめんなさい。申し訳ないと思いつつ、小桜の塔という対馬丸犠牲者の慰霊碑にお参りをして記念館を後にした。

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ランチは、カレーとぶくぶく茶

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2 「イーアス沖縄豊崎」
「対馬丸記念館」のあとに行ったショッピングモール。行く予定はなかったが、埼玉の家で沖縄行きの準備をしている時に、辺野古は暑いかな、寒いかな、こんな柄のTシャツでは変かな等々と迷っているうち、24日に辺野古に行くための洋服を持ってくるのを忘れてしまい、買いに行ったのだった。
それにしてもこのような商業施設もどんどん増えているような気がするが、必要な人はそんなにたくさんいるのだろうか、、、。

それにしても、美しい景色だった。

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23日の夕方は、Mさんに美味しい沖縄料理をおごちそうになった!志縁の苑のこと、もろさわ先生のこと、いろんなお話も伺えて、これまでで一番嬉しい沖縄の夜だった!

3 「不屈館」
辺野古に行った次の日、25日、午前にもろさわ先生をお訪ねすることができ、午後の時間があったのでMさんにご紹介いただいた「不屈館」に行った。瀬長亀次郎のことは、全く知らなかったが、沖縄復帰50年の今年、知らないではいけない人だった!「不屈」という言葉もすごいし、書もまた素晴らしかった。

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前日の24日、辺野古に瀬長亀次郎を題材とした演劇の告知にその劇団の人が来ていた。東京でも公演があったが、すでに予定が入っており行けなかった。再演があれば行ってみたいと思っている。

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2022年は沖縄の日本復帰50年。1972年頃の自分の記憶といえば、大きなことが二つある。

①復帰を記念して5月15日に学校が半日授業になったこと。1972年のその当日だったような気もするが、その年だとすると住んでいた場所が記憶と違っている。半世紀前のことで記憶があやふやな部分もあるが、校内放送があって、当時の言葉で「半どん」になり、それに味をしめた私は、翌年からはきっと祝日になって学校が休みになるに違いないととても喜んだ。果たしてそうはならなかったし、喜ぶところが違う(子どもだったから許して)のではあるが、祝日になってもよかったのではないかと今も思う。

②夏に沖縄の子どもたちがやってきて、我が家にホームステイをしたこと。これも復帰後の夏だとすると、当時住んでいた場所での記憶と違うのでそれより前の年だったかもしれない。

「国鉄」の九州の管轄が「九州」から「九州・沖縄」になることを記念して沖縄から子どもたちを招き、職員の家庭にホームステイをしてもらって、九州観光もしてもらう、みたいな企画(多分)で、国鉄職員だった父の関係で我が家にも私と同じ歳の女の子がホームステイをした。

しばらく文通などしていたが、その後引っ越しもしたのでご縁も切れてしまった。先日実家を片付けていたら、その時の写真が出てきた。

(続く)




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