見出し画像

「すべき」から「したい」へ

「すべき」と「したい」という考えがある。人は誰しもバイアスを持っていて、誰からの固定観念で、なにごとも〇〇すべきである、しなければいけない、捉えてしまいがち。

例えば、ベンチャーは上場しなければいけない、成長しなければいけないとかも、自分が真にそうしたいと思わなければ、重荷になってしまう。


友人と「すべき」ってなんだろうね?という話をチャットをした。

僕の中では、自分が感じるすべきと、相手に無意識に渡してるすべきの二つのイメージが浮かんだ。


自分が感じるすべきは、重たくて、強制的な感じがする。天井が低くて、呼吸がしずらしいというか。心に焦りがあり、ひっぱられているイメージ。

”すべき君”というのがいたとしたら、自信がない自分の投影なのかなと思う。判断軸を他人に委ねてて、これを言い始めたのは自分じゃないから、責任がないよねって、実は自分を守ってる気もする。すべきの時は、自分の意思やエネルギーを載せられていない感じ。

どう向き合うといいんだろう、と考えると、やっぱり背景を納得するまで聞いたり、自分である必然性、その先に生まれる楽しさをイメージして、したいエネルギーを味わっていくといいのかな、と思った。

ゲームみたいなものと捉えるとか、あとは、すべきをしたいことに変えるためにはどうすればいいか考えてみる?とかもアイディアとして浮かんだ。


同時に、無意識に、人にすべきを与えていないか?を考えてしまった。よく仕事だとやってしまう失敗だ。

自分のすべきをそのまま相手に渡すと、受けた側の息がしにくくなる感じがすると思って、嫌な気持ちになった。

そういう依頼をした時は大抵うまくいかない。クオリティが低かったり、期限が遅れがち。その依頼が、相手のものになってないから。

すべきには、短期的に強制力はあるけど、長くは続かないし、繰り返し多用すると、どこかで破綻がおきそう。ほとんどの人がすべきを、したいに変えられるわけではない。

なるべく、依頼する側も、その人のしたいになるように、その人ならではのとか期待とか、丁寧に伝えるのが長い目で見ても大事なんだろうなと思う。


PRINCIPLESという本にこんな考えがある。すべてであると同時に、無の存在であるという考えだ。

私たちはすべてであり、無でもあるということは大きなパラドックスだ。自分の目からすれば、私たちはすべてだ。たとえば、自分が死ねば世界は消える。だから人にとって、死ぬことは考え得る最悪の事態だ。そしてできる限り最高の人生を送ることが何よりも重要なことだ。

だが、自然の目で私たちを見下ろすと私たちにはなんの価値もない。私たち個人は70億人の1人でしかない。私たちは人間種は、地上に生息する生物1000万種のたった1つでしかない。地球は銀河系に存在する1000億ほどの惑星のわずか1つでしかない。そして銀河系は宇宙にある2兆ほどの星雲の1つでしかない。私たちの寿命は人間が出現してから2万分の1の時間だ。

言い換えれば、私たちは信じられないほどちっぽけで短命な存在だ。何を達成したとしても、その影響は大したものではない。同時に本能的に大きな存在でありたい、進化したいと思う。そしてわずかながら重要な存在になり得る。そしてこのわずかなことが足し合わされて世界は進歩するのだ。

上記の言葉は、壁にぶつかった時に、自分自身を楽にしてくれる言葉。地球や銀河からみると自分は無に等しい存在であるからこそ、やりたいこと、意志次第であると解釈している。

世の中は「すべき」にあふれている。それは自分自身が勝手に定めたものや、誰かから定められたものまで様々。


自分が無意識に選んでしまっている「すべき」はなんだろうか?それがどうしたら、「したい」に変わるか。

一度棚卸ししてみてもいいかもしれない。

最後まで記事を読んでいだきありがとうございます。毎日更新をしているので、よかったらまた読んでもらえると嬉しいです。