【ネタバレ注意】自分の中で『すずめの戸締り』をうまく締めてみる。

※以下の内容には本編のネタバレが大いに含まれます。

新海誠監督の最新作、『すずめの戸締り』を初日に観てきました。TOHOシネマズ新宿の夜9時半からの部に仕事終わりに駆け込んで行ったのですが、やはり年齢層は少し高めかなぁって感じの客入りでした。天気の子に比べて女性の数も多い気がします。

さて、肝心の感想なのですが……。

お前、どの目線で語ってんだよってお叱りを受けそうですが、140字で表現するのは難しかったので、こちらで視聴直後の感想をまとめたいと思います。

まず本作はもろに3.11を題材にしており、『君の名は。』、『天気の子』に比べると現実に即したものとなっている。一方で猫が喋ったり、登場人物が椅子になったりと主題以外の設定を非現実的にすることで、バランスを取っているように感じました。

ここからは物語の時系列に即して話していきたいと思います。

物語の前半は子供用の椅子に姿を変えられた草太と共に、要石の役割を放棄したダイジンと呼ばれる猫を探す旅に出かける。
鈴芽の住んでいる宮崎から愛媛、神戸、東京とそれぞれの町で人と出会い、交流をしながら後ろ戸を締めて回るロードムービーのような描き方をしている。
このような物語の展開は新海作品ではよくある手法で、『君の名は。』では瀧君のバイトや三つ葉の学校生活の様子を、『天気の子』ではヒナの晴れ女としての活動をダイジェストで描いている。
以前の2作ではそこにRADWIMPSの音楽があり、ある意味コマ送りのように物語を進めることでテンポの良さを出していたのだが、本作では後ろで流れる音楽はオケのみで歌詞はなし。さらにガッツリと生活を描いており、それでいて前2作のようなテンポ感が失われていない点は、率直にすごいと感じた。

舞台が東京に移ると、草太から閉じ師の仕事についての具体的な内容を教わり、要石は東西に二つあることを知る。そして東の要石は東京のどこかにあり、それが抜けると大災厄が訪れると言われる。
そんな中、お茶の水の方を見ると、丸の内線とJRが立体交差しているトンネルからみみず(災厄)が溢れ出ているのを発見。
椅子に化けた草太と鈴芽はそのみみずに飛び乗り、東京の空を舞う。
東京の上空で塒を巻くみみず。
ダイジンから「もうすぐたくさんの人が死ぬ」と言われ、草太はそこでダイジンに椅子に変えられた時、要石の役割が自分に映されたことを知る。
時間が差し迫る中、鈴芽は要石となった草太をみみずに刺すことで大災厄から東京の街を守る。

まぁ、草太が人柱になることは大方の新海誠ファンは予想していたのではないでしょうか。
「大きな犠牲を払って目の前の一人を救うのか、あるいは大切な人の犠牲にして大きなものを守るのか」という命題は「キミかセカイか」というセカイ系に通ずるものがあり、ゼロ年代の最前線で仕事をしていた新海誠監督の永遠のテーマのように感じます。
前作『天気の子』では「ヒナを失うくらいなら、天気なんて狂ったままでいい」と目の前の少女を選択。その結果2年も続く雨で東京の半分が沈没したという結末はノベルゲームのビターエンドのようで、令和の時代に本気でその結末を描いた新海監督に私は深い衝撃を受けました。
本作の場合はその逆で「草太を要石になってもらうことで100万人の命を救う」という選択を鈴芽は選びます。絶望に満ちた表情でみみずに要石を刺すシーンはHF2の衛宮士郎を彷彿とさせました。

本来ならばここで物語が終わるはずなのですが『すずめの戸締り』はここから後編を迎えます。
主人公の草太を救うため鈴芽はかつて自分が迷い込んでしまった扉を探す旅に出かけます。草太の親友・芹澤と宮崎から鈴芽を追いかけてきた叔母の環と共に東北を目指す。

道中は松任谷由実や松田聖子など往年の曲を流しながらドライブをする芹澤に対して、助手席の環と後部座席に座る鈴芽はあまり乗り気ではなく、会話もほとんどありません。
そしてその食い違いは道の駅の駐車場で一気に爆発します。
鈴芽の「重いんだよ」の一言に対し、タカが外れた環は、鈴芽の母・椿芽が死に、4歳の鈴芽を引き取ってから自分の人生を生きられなくなった胸を吐露。「姉が残したお金に釣り合わない」や「コブ付きのせいで婚活も失敗続き」などかなり辛辣な言葉を浴びせます。

正直ここはかなり驚きました。ここまで描くか……と。
親子の人間関係を新海監督がこここまで深く表現するとは思っていなかったので、このシーンはかなり衝撃を受けました。
自分の中で「あっ、新海監督今回はかなり新しいことやろうとしているな」って感じた瞬間でもあります。

親子関係がギクシャクしながら旅を続けるのですが車が故障。
鈴芽と環は捨て置かれた自転車に二人乗りして鈴芽がかつて母と暮らしていた家を目指すことに。
このシーンで環は「それだけじゃない」と先ほど鈴芽に対して抱いていた気持ちを告白します。
ここで「あれは嘘だった」や「言いすぎた」などで片づける作品が多い中で、口から出た本音を認めつつ、それ以外の言葉で関係を取り戻そうとする。
そして、その言葉に素直に応じる鈴芽を見て、確かにこの二人には強い絆があることを視聴者は再確認します。

かつての家があった場所はコンクリートの基礎部分だけとなり、引の画で高く聳える堤防と建物が一件も建っていない様子から、我々はあの震災で津波に襲われたことを認識します。
鈴芽が埋めたタイムカプセルの絵日記には3月11日の日が真っ黒に塗りつぶされています。そしてページをめくりながら幼い鈴芽が母の居場所を人々に尋ねる声が重なります。
そして次の瞬間、夢で見たあの景色が絵日記に描かれており、鈴芽は確かにここで後ろ戸を開いて常世に行ったことを思い出します。

扉を見つけた鈴芽は要石となった草太を元に戻そうとします。しかしそれを抜いてしまうとみみずがこの世に溢れ出てしまう……。
鈴芽は自分が要石となることを言うのですが、そこでダイジンが要石として復帰することでミミズを沈めることに成功。
目が覚める草太。二人は丘の上にいる幼い女の子の姿を見ます。
鈴芽はそれが12年前母を探してここに迷い込んだ自分であるとすぐに理解し、彼女に椅子を渡すことで物語は幕を閉じます。

ここなんです、私がこの作品が妥協したなと思ったところは。
鈴芽は母がまだ生きていると信じて疑わない鈴芽に対し、「すでにお母さんはこの世にいない」ことを諭します。その上で彼女を抱擁しながら、「どれだけ辛いことがあっても明日がある。あなたの明日は光に溢れている」と鼓舞し幼い鈴芽は扉をくぐり現世へと戻っていくのですが、ここがありふれているなぁと感じてしまったわけです。

確かに鈴芽の言うことは正しい。
どれだけ今が絶望しているとしても明日はやってくる。
ただその励ましは希望がある人だからこそ口にできる言葉なのではないかと思うのです。本当に心がしんどい人は、今も明日も何も考えられない。気休めでも「希望はある」なんて言葉をかけてほしくはないのでは?と。
特に鈴芽は草太の父と話すシーンで、少し人とは違う死生観を持っている風に描かれていました。

「生きるか死ぬかなんて運が良いか悪いか。その違いだけ」

(のような意味)のセリフ。
ここにゼロ年代の香りというか、渾身の新海誠節を感じたわけです。
自分の命すら客観視している鈴芽がこれから絶望の日々を生きることになる幼い鈴芽に言葉としては少し安いのではないかと。

おそらくここが興行としてのボーダーなのではないかと感じました。
これ以上深く詰めると共感してくれる人は減る。
だけど安易なエールだと一気に安っぽくなる。
「あなたの明日は光に満ちている」という言葉と、最後に幼い鈴芽からあなたは誰と問われ「明日のあなた」と答えるのがベターな回答だったのかなぁと自分を納得させました。

個人的にはこのシーン、鈴芽が母親のふりをして幼い鈴芽の頬を一発殴り、その後抱擁してお別れの言葉をかけてあげる。というシーンをやって欲しかったなぁ〜って思います。
本当の母親でなくても、その言葉こそが、これから絶望の日々を過ごす鈴芽にとっての何よりの希望になるのではないかと思い、また母親のふりをする鈴芽もその言葉を自然に口から出して初めて自分もあの日、こうして抱擁してくれたのは未来の自分だったことに気が付き、自然と涙を流す。という展開にした方が良かったのではないかと考えました。

個人的にはダイジンも最後に要石に戻るんだったらここまでことを荒げなくて良かったやんと思うし、そもそも人間が椅子にされるというファンタジーな設定と東日本大震災というリアルすぎる主題のミスマッチ。さらにそれを伝奇として昇華させるっていうのも少し無理やりな感じがあったかなぁと感じます。

まとめ

そういうわけで『すずめの戸締り』はとても面白い作品だと思いましたし、今これを書いている時も面白いじゃんって思っております。おそらく今年見た作品の中ではダントツで1番!
けど最後の落とし所に納得が行かず『天気の子』ほど絶賛できないのが現状です。
とりあえずあと何回か観ないととは思っております。
それぐらい良い映画だったんで、皆さんもぜひ観てください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?