断章 2020年11月25日の日記


シオランの思想を解説した一冊である大谷崇の『生まれてきたことが苦しいあなたに』を読んだ影響か、断章を書きたくなっているので、今日は本当に脈絡なく短い文章を書き連ねていこうと思います。上の理由は半分で、残り半分はあまりに目がかぴかぴでモニターを睨んでいるのがつらいからです。今日はコンディションがあまりによくない。



「夕寝」という言葉を最近知った。昼寝は昼に寝ることだけど、夕寝は夕方に寝ることなのだとか。私は今まで(休日なんかはとくに)時間を問わず眠くなったら寝てしまっていたのだけど、やはりそのことには罪悪感があった。昼寝は想定されているから言葉があるのであって、変な時間に眠ることは日本語において想定されていない。そう思っていたのですが、「夕寝」の存在を知ってなんだか救われたような気がします。言葉の存在しない、寝てはいけない時間に寝ているのだという罪悪感からの解放。これからはどんどん夕寝していこうと思います。睡眠、眠気がやってこないのが一番なのですが、二番目に良いことは睡魔に抗わずに済むこと。



部屋でだらだらしている妹とドア越しに談笑していたのだけど、唐突に妹が部屋の内側からドアをノックし始めてものすごく気持ちの悪い思いをした。そんなわけはないのだけど、部屋の内側と外側が入れ替わったような感覚を一瞬覚えた。木下龍也の短歌にもそういったものがあったし、赤瀬川原平の『宇宙の缶詰』も思い出した。市販の缶詰のラベルを内側に貼り直した作品でこの操作によって缶詰の内と外が逆転し、私たちは缶詰の「中身」になった、という作品。クラインの壺ではないけれど、内側と外側というのは案外簡単な操作で揺らいでしまうような不思議な性質を持っているように思う。例えばそれは、部屋の内側から「入っていますか」のノックをするようなものだったり。



何日か前、Twitterの検索窓で「みゅう」と打ち込んでみたところ、サジェストにはミュウよりもずいぶん先にミュウツーが表示されていた。オリジナルとなったものよりも先に表示されてしまうような倒錯が起こっているのが、なんだか趣深い。この現象も『ミュウツーの逆襲』っぽくっていいんですよね。



鳴き声だけ知ってる近所の犬がいる



逆再生にすると意味のある言葉になるギミックって最近ではもう手垢にまみれた手法になってしまっているような気がする。だけど、さらにそこでもう一つ捻って「ははん、これは逆再生だな」と思って逆再生をさせたらめちゃくちゃ意味の分からない狂った言葉の羅列が出てきたら面白いんじゃないかな。筒井康隆原作の『パプリカ』みたいな感じで。手法はすぐにテンプレートとなるため、テンプレートはテンプレートからの逸脱の方法をさらに探っていく必要がある。裏切られることに慣れている人の予想を裏切るのは難しい。



わたあめみたいなふわふわしたものを作るのに適しているのがザラメみたいなザラザラとした砂糖なの、優しい心を持つ野獣みたいで良い。



今日も散歩。道に落ちているゴミの比率が
煙草の吸殻 < 使用済みマスク
になっているのに気づいて、なんだかディストピア小説の細部の描写みたいだなって思った。こういったリアリティのある小説が好き。



家の門なんかに張り付いているヤモリの写真を撮ったりするのが好きなんだけど、爬虫類や昆虫の写真はTwitterに投稿するには人を選ぶので、本当に私だけのためのヤモリの写真が私のカメラロールにはいる。誰に見せるためでもなく、私とヤモリは一体一の関係を結んでいて、そこには一切のソーシャルな要素は存在しない。むしろ、ヤモリやトンボの写真以外の多くのものはソーシャルな要素を含んでいる。SNSでシェアしたり、文章にしたり。ここに書いてしまったことで、私はヤモリとの契約を破棄した形になる。



今日の日記、ほぼTwitterみたいなものでしたね。Twitterもショートブログみたいなものですし、断章を書こうとすれば自然と形式がTwitterっぽくなってしまうのかもしれない。

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