実体験を書かない 2022年8月28日の日記

小説を書いていると「それは実体験をもとにした描写か」と訊ねられることがたまにある。しかし、すくなくともわたしの場合、実体験を直接的にエピソードとして採用して小説とすることは皆無である。むしろ、なんらかの描写をおこなうことからはなるべく距離を置くことを志して小説を書いている。

これは、小説という創作物を「作者によって作られた世界の読者に対する伝達のツール」と捉えることに対して違和感を抱いているからであり、むしろ、伝達という合目的性のうちに作られた作品は、その起点において情報理論的な意味における伝達の失敗/情報量の低減という不完全性が織り込まれたものとなってしまうとも考えている。作品を媒介者とした「作者 - 作品 - 鑑賞者」の構図を採用した場合、そこに生じる意味は、作者の脳内から鑑賞者に辿り着く段階で、不可避的に削られていくことになる。それを避けるためには、作品という概念を「道具」から「存在」へと回復させていく必要がある。伝達という合目的性ではなく、ただそこに存在していて、誰かに解釈されることを待っている塊として作品があればよい。

それには「実体験をもとにした描写」というようなものは存在している必要がなく、そのような操作を通してのみ、作品の積極的誤読可能性は開かれる。積極的誤読こそが、作品の価値を作者という個人から解放する。柔らかい言葉で言い換えれば、読まれることではじめて誰かの内に生まれるものを大切にするにあたっては、なにかを伝達しようとする意志は夾雑物となってしまう、ともいえるだろう。

では作者であるわたしはどのようなものを源泉として書けばよいか。当然、わたしも時間経過のなかに閉じ込められて線形に生きる生命であるので、なんらかの経験を偶然的に行い、それを契機として行った思考を実作に反映させることはあるため、その意味においてすべては「実体験をもとにした描写」ではある。しかし、その実体験については、その内容ではなくその機構を表現対象とすることによって伝達の構図から逃れることが可能だ。関数において、その出力結果を問題とするのでなく、関数自体の機構を分析し、それそのものを表現の内容とするようなことを考えている。

それは、グリッチを創作に織り込むことと似ている。あるいは、定型詩におけるその定型が内容を制限することによって、なんらかの表現の領域を拡張するような、そのような偶然性が、自我を自明視した作者主導の伝達的創作からの脱却に寄与する。韻律や律動の「律」が規則にも音楽にも用いられる語であることも示唆的であるが、その「律」を「自我」に対置させることによって多層的な創作が可能となる。偶然を必然的に起こすようなシステム作りにおいて、自我はその動作のプレイヤーの一つでしかなく、わたしは小説においてそのようなシステムの構築と精度を問題としていきたいと考えている。すでに内部にあるものでなく、書くという動作を通してはじめて表現されうるなにごとかを目指すことによって、はじめて価値が作者から解放された、作品という固有の存在が成立しうる。わたしはそのような作品こそを読んでもらいたいなと考えている。そして、そのような「遺す」仕組みでの制作は、鑑賞者に対する信用の一つの形なのだとも思う。

と、長々と書いてしまったけれど、なぜそのような仕組みを採用しているのかといえば、作品を通して作者を解釈するようなやり方を拒む/なにか実存の反映でない創作をやっているひとが好きだからなのかもしれない。作品は作品としてそこに存在していると考えることは、一種の救いなのだとも思う。

所属している文芸サークルからアンソロジーが出ます。9月25日の文学フリマ大阪での頒布およびBOOTHでの通販を行う予定です。

青島はマリンスノーを主題とした短編小説「バラストブーケ」を寄稿しております。ヴェイユ『重力と恩寵』が参考図書です。良い作品になったのではないかと思いますので、ぜひチェックしてください。

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