麺の蓋の上のスープの時の本に 2021年1月17日の日記

思えば、競走馬のネーミングってすごいですね。ペットにすごい名前をつける方もいらっしゃるけど(例:ネコに「ネコ」と名前をつける)、競走馬ってもはや文章じゃないですか。バンド名をつけるのにも似ているのかもしれないけれど、それでも独特のそれがある。

私は名前をつけるのが好きだ。組んでもいないバンドの名前を考えてエゴサをしてみたり、勝手もいない犬に名前をつけて、さらにその犬をどんな愛称で呼ぶか(例:「わたあめ」という名前をつけて「わた」と呼ぶ)を想像したりしている。

気になって競走馬に名前をつける際のルールを調べてみたのだけど、カタカナ9文字以内、著名なブランドや映画の名前を入れない、実況放送で紛らわしくなるような競馬用語を含む馬名はダメなど、かなりいろいろなルールがあるらしい。

折角の人生なので、一度くらい競走馬に名前をつけてみたい。なるべくダサいやつを。

カップ麺の蓋の上にスープの袋を乗せて待っているときに読んでいた本にカップ麺の蓋の上にスープの袋を乗せて待つことが書かれていた。

嫌なことがあったのか、アイコンを真っ黒にしているTwitterアカウントをたまに見かける。はじめは「黒 画像」でGoogle検索する工程がある……と少し面白く思っていた。真っ黒の画像によって表明される心情の重さに対して、その検索という行為が着実で落ち着いたものに見えるからなんだと思う。

だけど、よく考えれば文章を書くのも似たようなものなのかもしれない。「今日とても嫌なことがありました」と抑えきれない憤りを文章にしたとしてもそれは「文章として成形する」という地に足の着いた行為の上に成り立っているものだ。ラブレターも多分そう。「検索する工程がある……」と同様に「文章を書く工程がある……」なのかも。

ただ、染みついた行動はその感情と不可分であると見ることもできるし、やっぱりしょせん外に出てくるような強い感情というのはなんらかの加工を経たものだと見ることもできる。表情も筋肉によって思考を可視化するモニターに過ぎない。

恩田陸『まひるの月を追いかけて』は登場人物の出し方が面白い。通常、物語の途中で登場人物を増やすとなるとどうやっても唐突になり、それをなんとか緩和してやるために「西のギルドに腕の立つ魔法剣士がいるらしい。なんでも一夜にして……」みたいに実際に姿を現す前にエピソードを語らせてやったり、物語に再三登場する人物や設定に深くかかわってくるような人物として登場させるなどの工夫を凝らすことになるけれど、それでもやはり物語を動かすエンジンとしてこのタイミングで工学的な目的で用意されているのだと感じてしまうことは多々ある。『まひるの月を追いかけて』はそこの処理があまりに美しかったので印象に残った。

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