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掌編「水蜘蛛と門」

水蜘蛛と門

 水門は閉ざされていたので、その周辺には遥かに多くの生物が棲み着いていた。山の頂から程なくして地の裏へ潜る伏流水は、光を必要としない地下性の生物の命を育み、時に奪い、栄養を運び、あるいは朽ちて栄養となった身を運び、そうしてやがて地下水門へと至る。水門は、全ての命の吹き溜まりであった。
 元は発電のために設えられたのだという水門は、電気を喰らう者が地上に居なくなって久しく、そのゆえに数千年の時を閉ざされたままに過ごし、数千年の水を受け止め続けていた。骨を持つ生き物の遺骸が沈み、しかしまだ化石となるほどの時でもなく、ただそれは、どこまでも丁寧に漂白された肋骨として、厚い有機物の層の下にひっそりと埋められている。
 地下水門の鍵は、地下水門の錠の、地下水門を隔てた反対側に括り付けられている。鍵を手に入れるには錠を開く必要があり、錠を開くためには鍵を手に入れる必要がある。理の内側では決して再び開かれることがないように、という管理者の計らいであった。逃げ去る魚の尾鰭が鍵を叩いても、鋼鉄の水門の扉が鈍い金属の音を響かせるだけで、鍵が不意をついて錠に差し込まれることはない。
 管理者の眠りは深く、水門の生物たちはだれとして管理者と顔を合わせたことがない。
 止水域には腐臭が立ち込め、一帯は密度の高い生命の気配で満たされている。生命は泥となり、泥から生命が這い出し、稀に全てが亡びる。一時は不毛の土地となったとしても水門には再び地下水の生物が入植し、新たにそこに王国を築き上げる。だから、水底には幾十もの王国の遺跡が沈んでいた。海老の触角を繊維として編んだ絨毯が遺物として発掘され、そこに微小生物が巣を作り、元は格子であった模様をそれ自体を生命とする斑点で覆い隠してゆく。意味という意味が代謝の仕組みに織り込まれて、そこには地層の形をとった時間のみが、ただ一つの理として横たわっている。
 管理者は水門の閉ざされることを好んだ。高きより落ちることは多くの力を蓄えているものであり、管理者は力を好まなかった。歯車が回らないと言っては水門の鍵を開ける身勝手を好まず、電気の徒がその好むところに従って落ちて亡びた後に、一度だけ目を覚まして鍵の在処を移し替えた。管理者は、眠ることを好んだ。

 鯉の王国が興って亡び、沢蟹の王国が興って亡び、貉藻の王国が興って亡びた。それらは興亡の末に均しく水門の前で層を成し、それらは均しく管理者の存在を識らない。水門は閉ざされていたので、全ての命の痕跡は何処へも流れてゆくことなく、密やかに、ただ平等に蓄えられていた。
 ある時、水蜘蛛の王国が興った。八つの眼は光のない王国で暮らすうちに退化をしていたが、かつて光を探した僅かな黒点は根強く頭部に残り、現在ではその栄華を讃える宝冠として、臣民たちに誇りを以って受け止められていた。全ての水蜘蛛は、黒真珠の冠を戴いて生まれてくる。水蜘蛛は新たな水門の主として、流れ着く地下水の全てを我が物とし、数多の水棲生物をその身の下に置いた。
 水蜘蛛の王国は水門の錠を中心とした同心円状の計画都市であり、その最も内側では純白の絹の宮が偉容を誇っていた。老いた宝飾工が貼り合わせた淡水貝類の螺鈿は、あらゆる街角で繊細に虹を描き、若い衛士が泥へ突き立てた魚の背骨はよく磨かれ、飴色の艶を湛えていた。しかしながら、それら全てはかつての祖がその身に感じていた光へ供されるものであり、美の限りを尽くしたその都市の姿を事実目にした者は、昏い地下水門の王国にだれとして居なかった。
 地下水門に光をもたらすことは、水蜘蛛らの念願であった。煌びやかな祖への憧憬を胸に、水脈を遡り地上を目指す旅団が結成され、光の粒子を合成すべく錬金術が発達し、かつて存在したとされる光の王国を地の底に発掘することを希求し、そうして、街の外れには大穴が掘られた。
 大穴の発掘に当たったのは、いずれも幼い個体であった。生命の残滓であり源である泥は、旧い光を探す勤めの中で黒々と巻き上げられ、幼体はその頭上に戴冠した八つの眼の意味を教わることもなく、気管を病んで命を落とす。そうした遺骸を埋めるためにも異なる穴が掘られ、その穴もまた、幼体によって掘られていた。
 穴はいずれも、絹の宮を穢すことのないように、流れを欠いた止水域に設えられた。泥へ紛れ込んだ骨片は絹の紗幕を裂き、生命の残り香は、臣民にその終わりがいずれ訪れることを強く知らしめる。水蜘蛛はそれら不気味に感ぜられるもの全てを水門の片隅へと追いやり、その栄華と関係を持たぬものとした。水門は、全ての命の吹き溜まりであった。
 以来、数百年に渡って穴は掘られ続けた。飛螻蛄の王国が地層から姿を見せた頃には宗教が興り。岩魚の御代が痕跡を露わにする頃には神学者の一派が学府を造り。そこに学んだ学者がかつての電気の徒の存在を明らかにする頃には、水車を動力とした機関が構想され始めていた。
 ほどなくして勅命が下され、水蜘蛛の王国にも水門が造られることとなった。
 初めの王から幾年が経ったのか、もはや判然としない。命に必要を持たない黒真珠は徐々に小振りなものとなり、権能の所以であるかつての宝冠を護るために、王の一族は宝飾工に義眼を作らせ、そのために街中から富が集められた。
 幼体は街の外れで穴を掘っていた。一帯を墓地に囲まれた穴は深く、地下水門の前に積み重ねられた全ての歴史は、やがて全てを遡られようとしていた。
 幼体の眼は、完全に退化を果たしていた。冠を降ろした幼体は、全ての光から自由であった。
 ある日、幼体は一つの小箱を掘り当てた。僅かな富でさえ王宮へ集められる時代にあって、そうした太古の遺物が接収されない筈がない。幼体は小箱が王に献上せられたことを心残りに感じたが、勤めを終えた浅い眠りの下、その中身を想像して心を慰めた。
 水蜘蛛の王はその晩、絹の王座へ臣下を集めた。王の八つの眼はその身体の大きさに不釣り合いに大きく、際限のないその要求に、臣下は疲れ果てていた。
 かつて栄華を極めた者が電気を用いていたという事実が、王とその臣下に残された唯一の希望であった。街は荒廃し、大穴からは毒が流れ、八つの眼は消失しようとしている王国で、水門がもたらすであろう電気と光は、救世の福音に似た響きを持っていた。
 もはや形骸化した祖霊への感謝の言を奏し、王は僅かに残された尊厳を掻き集める。同席した考古学者は欠伸を噛み殺し、宝飾工は手元で絹を弄んでいる。水門を築かなければならない。王が言い、遠くの穴では幼体が埋葬され、光のための王宮には腐臭を帯びた一陣の水流が走り抜けた。掘り返され尽くしてしまった地下水門の地層では渦虫と浮草が接合し、細菌が時間に跨って這い、可能性として存在した全ての王国が亡びていた。電気を喰らう者が世を治めたのは、その光のゆえである。王の言葉に耳を貸す者はだれもおらず、訪れた夜の振り撒く眠気に、臣下は眼を開いたままに眠りに就いていた。観る者を持たぬ純白の王宮で、王は孤独であった。水門を造らなければならない。水を留め、流し、その力によって光を産まなければならない。王の激励に応じる声はなく、王は怒り、手近な臣下を掴み、揺するが、目を覚ますことはない。長い時の後、王はやがて諦める。静まり返った街でも、光が有れば眠りを掃うことができよう。王の演説を括る最後の言葉は虚しく響いた。全てが眠りに落ちた水蜘蛛の王国で、王は、幼体の掘り起こした小箱の錠を開いた。

 そうして、管理者は目を覚ました。
 管理者は、力を好まず、眠ることを好んだ。そのために、管理者は鍵の在処を再び変える必要があった。
 管理者は鍵を取り出して、錠を開け、そこから鍵を取り出した。
 かつて、全ての命の吹き溜まりであった地下水門の門前には、あらゆる王国が築かれていた。
 けれど、水門は開かれてしまって。
 もう、だれもそこにいない。

青島もうじき(あおじま・もうじき)
作家。豆乳が好き。
2023年9月『私は命の縷々々々々々』(星海社)を刊行。『異常論文』(早川書房)、『破壊された遊園地のエスキース』(anon press)など。

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