単語の曙光 2020年10月28日の日記

(note版では一部文章をカットしています)


「曙光」という言葉を初めて知ったのは、ネヴィル・シュートの『渚にて』を読んだ2016年11月のことだった。世界の終焉へと穏やかに、だけど確実に一歩一歩近付き続けるオーストラリアの朝を描写する冒頭1ページ目に、その言葉はある。私が初めて意識して自発的に読書をしたのがこの『渚にて』だったのだけど、そこでこれまた初めて「知らない言葉だな」と思って調べたのが「曙光」だった。昏きを啓く朝の光という意味を持つその単語が私にとって最初の読書体験であったのは、どこか出来過ぎの偶然のように思う。


どこで初めて見知った単語かというのは、言語感覚において極めて面白いトピックであるように思う。ある程度の単語は物心がつく前に覚えてしまっているし、難しい単語についても「誰かが話しているのを聞くうちになんとなく」とか「学校で習った……ような?」みたいな形で、知らないうちに単語として人間の脳みその中にストックされていく。そういった漠然とした時間的な方向性を持たない一次元的な情報ではなく、単語とエピソードが強烈に結びついているようなものを私は消費対象として好む。昨日タイムラインで紅茶を「こうちゃ」と読むことを知ったときのエピソードを見かけたけれど、ああいうの。すごく良い例過ぎてこの後が書きづらいくらいには単語とエピソードの結びついたいい例だと思う。きっとあの人の中では今でも紅茶という概念にエピソードと結びついた独自の意味合いが形成されてるのだろう。それはエピソードを持たない人間には持ちえないものだし、得ようと思って得られるものではない。私にとってそれは「曙光」だった。他はあまり覚えていない。


最近だと、柚木麻子の『さらさら流る』の中で「暗渠」という言葉を覚えた。「地下に潜り、流れが人の目に触れる事のない水路」を表す言葉だ。それまでにも何度も目にしたことがあるし、なんなら使ったこともあるような記憶があるけれど、意味合いをちゃんと知ったのはそれが初めてだった。知らない単語を知らないと認識しながらも「まあいっか」とスルーしてしまっていたのだ。よくない。いくら知識を蓄えても、というか知識を増やしてそれらを結び付けていくことによってむしろ、知らない単語や概念は増えてくる。なるべく調べて理解するようにはしているけれど、専門的な用語だと分からないこともある。いずれにせよ、「あれが最初だった」と記憶に残るような、独自のエピソードに基づいた意味合いを持つ言葉が得られればいいなと、私は常々思っている。

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