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2022年8月9日の日記 混信回避行動 他

久々に日記を書くぞ。気まぐれに書いたり書かなかったりするものは日記ではないのではとは思うが。

人間とは異なる感覚器を持っている生物というのはかなりの種類存在しているわけだが、それらを分類していくと、人間の感覚というものも案外直感に反した分類がなされることに気付く。

たとえば、聴覚と触覚は刺激の正体がどちらも機械エネルギーであることから、同じ分類の感覚器であるということができるし、皮膚で感じる熱と、網膜で感じる光も同じ電磁波による刺激を受け取っていると考えることができる。あるいは、それらは刺激の程度によってはそれぞれに相互に対応しうる刺激であると考えることもでき、動物によって可視光線の領域が異なるように、その刺激の程度によって感じ取る感覚器が変わってきたりもする。巨大な音に圧されることがあり、あまりに眩しい光には熱されることがある。世界には五感が存在しているわけではなく、世界を五感に切り分けて認識しているだけにすぎず、その意味において、異なる感覚器を持つ生物には五感とは全く異なる世界が存在していたりするのだろう。

弱電気魚はその体内に電場を生成する器官、およびその自らの作り出した電場を感知する受容器を持っている。この二つを使うことで、周囲の電場の乱れを感知して、身の回りになにが存在しているのかを知ることができる。電気的特性は視覚における波長(色覚)のようなものであり、自らの電場を乱したものが岩であるのか生物であるのかなんかを判断したりもできる。

しかし、この弱電気魚同士が接近した場合、お互いに電場に作り出しているためにその電場が混信・・することがある。人間に照らしていえば、二人の人間が近づくことで二人の視界がぐちゃぐちゃに混ざってしまうようなものだ。そうなってしまうと困るわけなので、それを避けるために相手の発するパルスの周波数を感じ取って調節を行う。もし自分のほうが周波数が低ければより低い方に、あるいは自分の方が高ければ高い方に周波数を動かすことによって、お互いの感覚が重ならないようにするのだ。これを混信回避行動という。どうしてもわたしなんかはこれを「調整」と呼んでしまうわけだが、これが弱電気魚にとっての感覚・・なのだろう。

思考という行為を行うためには、その材料となる感覚の受容が先に為される必要がある。その感覚というものはなんらかの器質的な性質によって世界を切り分けただけのものにすぎないのだ、という補正項を思考に導入することは、人間中心主義からの脱出においてなにか重要なことなのではないかと思う。

アジアを読む文芸誌『オフショア』第1号

紅坂紫さんからアジアを読む文芸誌『オフショア』をご恵投いただきました。ありがとうございます。紅坂さんは短編「シルクロード・サンドストーム」をご寄稿されています。

取り急ぎ「シルクロード・サンドストーム」の感想を。文化というのはつまるところ固有名詞や、あるいは固有名詞とも認識されなくなった固有の出来事の集積から立ち上がってくるのだ、ということを感じたりした。それら点と点であった概念を結ぶことができるのは、文化の内部である温室から出ていった人間だけである、という小説だったのだろうと思う。そのような立ち位置の登場人物としてクィアを選んでいるのも非常に良かった。

『万象:アジアSFアンソロジー』掲載作「シルクロード・ハイウェイスター」の続編であるのも個人的には嬉しかった。わたしも寄稿した一冊から枝を伸ばして活躍されているのを見ると、こちらも良い小説を書いていきたいなと思わされる。あらためて、ご恵投ありがとうございました。

日記の定期的な更新をやめたわけだが、そのぶん創作の量がかなり増えている。質も上がっているんじゃないかと思うので、2022年下半期もご期待ください。現在告知できる範囲でいえば、9月には『生物SFアンソロジー』と『時間百合SFアンソロジー』、サークル〈汽水域観測船〉の会報に短編が載る予定。これ以外にも年内に数作出る予定なので、告知が解禁され次第、また日記という名目を借りた宣伝をしにこようと思います。9月以降はそれなりに予定が空くような気もするので、お仕事や企画のお誘いもお待ちしております。

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