最後の晩餐 2020年10月27日の日記


よくある質問だけれど「人生で最後の食事はなにがいいかな」と考えることがある。「無人島に一つ持っていくなら?」とかその手の質問って、永遠のテーマなのだろうけど、きっとそれは回答に人間性が大いに反映されるからだ。バウムテストやロールシャッハテストに近いものがあるんじゃないかな。解釈によってその人のバックボーンや心理状態を炙り出す一つの手がかりになるような気もする。でも上二つの試験は「そもそも意味のないもの」にどんな意味を見出すかでその回答を人間性の鏡とするものなのだろうし、回答者が理解できるような意味を持っている「無人島に一つ~」はやっぱりあまり専門的なというか詳細なというか科学的な精神分析には向かないのかもしれない。やっぱりコンパで話題が尽きたときの最終手段ぐらいに捉えていた方がいいかも。


ラスト飯について、私はまだ答えを出せていない。まずそもそも人生最後のシチュエーションにかなり左右されると思うのだ。例えば、焼き肉が大好きな人がいたとしても、火あぶりにかけられるその直前に「ほらよ、焼き肉だぞ」とウェルダンのお肉を提供されたら複雑な気持ちになるかもしれない。私はうどんが好きなので普段は「死ぬまで全食うどんで良い」なんて言っているけれど、現実問題それは飽きる。本当はパスタも食べたい。それに、最後の晩餐にうどんというのは、なんだか何と比較してなのかは分からないけれど損をしたような気もする。そういった比較をすることなく、誰かの価値観に左右されることなく、自分の食べたいものを好きなように食べられることが一番の幸せなんだよ、なんてことを言う方もいるかもしれないけれど、私はそんなに丁寧で高潔なつくりになっていないので、「どうせなら焼き肉が食べたい。高い肉」などというタイプなのだ。別にそこまで焼き肉が好きだというわけでもないのだけど。


別のアプローチとしては大喜利をしてしまうというのもあるのだろう。「最後にそれ食べる!?」をやってへらへらしながら死ぬのは、食事という行為と自分の最後という、人生においてとんでもなくウェイトの重い二つを犠牲にしてしょうもない笑いを取るという行為は、一種の最上級の贅沢と言えるかもしれない。私自身はそこまで食にこだわりがあるわけでないので、そちらでもいいかなと思っている。最後の晩餐でウイダーを10秒チャージしている人がいたら私も笑っちゃうし。


上二つは完全に「誤魔化し」の最後の晩餐だ。先ほどさらっと「よく出来ていらっしゃる」と突き放した「誰かの価値判断に左右されない本当に食べたいもの」について、もう少し真面目に考えてもいいような気がする。シャトーブリアンが食べたいだのこの店で一番高いものをだの、金額という人間の活動がこれから先も続いていくことを前提とした貨幣制度によって価値があると見做されたものは、人生の終わりにおいてそれ自体のみで当人にとって本質的な価値をそれほど持たない。一生かけて頑張ってきたおかげでこれが死の間際に食べられる、という頑張りへの褒美という間接的な形で価値を認めることはできるかもしれないが、高いから良いというのは、未来ある人間でのみ成立する考えだ。


いろいろ考えてみたものの、結局のところ、あまり食事そのものに興味がないので、好きな人間たちと食事できればなんでもいいような気もする。ちょっと「ぶった」回答かもしれないけれど、人生最後の食事なんて演技かと思うくらい邪気のない気持ちで迎えてもいいのかもしれない。それこそダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のような絵面で私の好きな人間が並んでいる食事光景を想像して、少しそれがいいような気がしてきた。ほとんど誰とも食事に行けていないので、より一層そういった欲求が強いのかもしれない。精神状態によっては「やっぱ寿司っすかね~~~回ってない高ぇのがいいな~~~」なんて言っていてもおかしくないので、やっぱり精神分析の手がかりくらいにはなるのかもしれない。

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