ぬいぐるみと火葬 2021年1月23日の日記

ユリイカ2021年1月号『特集 ぬいぐるみの世界』を読んでいる。ぬいぐるみとはどういった存在であるのかを美学的な観点から批評する論考であったり、じっさいにぬいぐるみを制作している方のインタビューが掲載されていたりと大変興味深い一冊なのだけど、中でもぬいぐるみと暮らしている方々にとってぬいぐるみがどういった存在であるのかは生の声として面白い。

何度か見かけた「持ち主である私が死んだらこのぬいぐるみたちはどうしたらいいのだろう」という悩み(?)はなんだか心にくるものがあった。私は人間とモノとの関係が好きだ。モノだからこそ寄せることのできる感情というものは、確かに存在すると思っている。自分以外の人間に対してなにかしらの感情を抱く、寄せるという行為は、常になんらかの感情が返ってくる可能性と隣り合わせである。対してモノは(少なくとも人間のわかるような形では)人間に対して感情を返してこない。人間はそこに自らの望むようなありかたを投影することができる。感情を返さない無機物として心を寄せることもできれば、アニミズム的にそこに魂のようなものを見出して何かを託すこともできるし、なによりその二つを時々に合わせて使い分けることができる。それが私が人間とモノの関係にぐっとくるなにかを感じる所以である。だから『少女終末旅行』とかズビズビ泣いちゃうし、『ONE PIECE』も読んだことはないのに船が燃えているシーンの一コマを見ただけで鼻の奥がツーンとしてしまう。

ポケモン世代なのでポケモンの話をするのだけど、ぬいぐるみを模したポケモンにジュペッタというものが存在する。確か、愛されていたのに飽きられて捨てられたぬいぐるみに魂が宿った、みたいな設定のゴーストタイプのモンスターだ。捨てられたものが恨みを持つという設定を子供ながらにすんなりと受け入れていたということに、今更ながら思い当たる。現代の消費社会においてはモノを捨てることは日常茶飯事となっていて、(私は食べられる分しか買わないので全くないのだけど)食品廃棄が問題となっていたり、過剰包装によって大量のゴミが出ていたりもする。iPadに取り込んで電子化した書類は全部シュレッダーにかけているし、シュレッダーが壊れれば粗大ゴミだ。これだけ多くのものを捨てているというのに、ぬいぐるみや人形にはどこか不思議な「恨み」っぽさがある。ユリイカの多くの論考で指摘されていたように、それが長く触れ合うことで「自分」の匂いやら痕跡が染み付いてしまっていることと不可分ではないのだろうけど、それを子供が直感であっても理解しているのが不思議だ。

私の部屋にはいま二体のぬいぐるみが飾られている。ひとつは知人にもらったのすみっコぐらしの「とかげ」で、もう一匹は『結城友奈は勇者である』に登場するネコと枕をくっつけたようなキャラクターのものだ。なんだか部屋に馴染みすぎて注意を向けることもあまりなかったけれど、なんだかユリイカを読んでいるうちにその存在感が私の中で増していくのが感じ取れた。ぬいぐるみは物質的にはずっと同じ状態でそこにいてくれるけれど、物質以外の要素によってその存在の質が変わる不思議なモノなのかもしれない。

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