花を折る 2022年5月22日の日記

植物の病原体についての本を読んでいる。ヒトをはじめとする意識ある生物はどうしても個体をベースにした概念から逃れることができないけれど、植物や微生物はそれとはまた異なる在り方が可能なのだろう。村田沙耶香『コンビニ人間』の中で、死んだ小鳥の墓に花が添えられているのを見て、「花は殺してよいのか」と考えるシーンがあった(記憶がある)が、あのシーンについては明確に答えが出せるのだと直感している。どこまでも個体である動物とは違うことわりの上で生きている植物。花を殺すことについての答えを探すことは、人間中心主義からの離脱に近づくことなのだろう。

生物の進化には遺伝子の水平伝播・・・・と呼ばれる現象が関わっていることがある。これは、他の生物が持っている遺伝子を自身の遺伝子の中に取り込むことで新しく形質を獲得するというものなのだが、これが上手く機能するのはあくまでその生物が多産多死であるからだ。水平伝播によって獲得した遺伝子は、多くの場合は有害か無益かである。その多くの犠牲のうち、ごくわずかに残る有益な形質がその生物を新しい環境で生き残らせる。その手の細菌が環境に適応していくのは、多く生まれ、その大半が犠牲となることが前提のシステムを持っているからだ。それを可哀そうだと思うことは単なる擬人化による偏った感情移入でしかない。

人間の意識はどうしても個体というくびきにとらわれてしまう。システムであるということ。そこに個体としての意識がないこと。小鳥と同じ仕組みで花に感情移入することは、花を思うことにはならないだろう。植物に感染して毒素を産生する菌は人間にとっては病原菌だが、植物はそのことでヒトを含む他の動物に食べられずに済むことが増えるため、むしろ植物にとっては共生菌であるともいえる。

わたしはいまのところ世界が面白くて仕方がないので個体としては死んでしまったら困るなと思っているのだけど、それはそうとヒトとして生まれなければ意識のないシステムの中の一部として存在できたのかもしれないとも考えることがある。そうしてやはり『コンビニ人間』に戻ってくるのだが、個として存在してしまうこととシステムの一部であるという恍惚は、小鳥と花の死にそのまま喩えられるものなのだと思う。

意識ある個体は尊重されてしまう。そこに倫理が生じてしまうからだ。であるならば、倫理の生じないシステムの中で、細胞-組織-器官-個体-社会から成る構造の中で静かに生まれて死ぬこともひとつの理想なのかもしれないとも思う。

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