身体イメージの創造 2022年2月4日の日記

 大阪大学総合学術博物館の特別展『身体イメージの創造 感染症時代に考える伝承・医療・アート』に行ってきた。物理的に世界の中に存在している「身体」それそのものは文明が始まって以来、大きな変化はなかったものと思われるが、それを取り巻く技術や知識、認識などの面から「身体イメージ」は時代と共に常に更新/拡張され続けてきた。昨今の疫病下において一気に存在感を増した「リモート」という在り方もおそらくはその一つに位置づけることができる。本展が後日オンラインでの展覧会として公開/デジタルアーカイブされる予定であることや、沈黙による集合をCOVID-19を通して提示する展覧会『隔離式濃厚接触室』の資料版が展示されていることなども、「身体イメージ」に対するコンテンポラリーな応答であるといえるだろう。

 入場してすぐのZone1では「疫病と医学」という切り口から展示がなされている。ふだんサイエンスを触っているとどうしてもそのようなテーマからは疫病の生化学的なメカニズムや、そちらからアプローチした行動経済学的な蔓延の経緯などに目がいってしまうが、本展ではそのような疫病に対して当時の大衆がどのように関わっていたのかといった記録が主となっている。「種痘」『衛生寿護禄』は衛生の重要性や具体的な手立てなどを漫画的な表現で示した「すごろく」である。作成した大日本私立衛生会は現在の日本公衆衛生協会の前身に相当する団体であり、疫病を「イメージ」によって予防しようとしたものと思われる。印象深かったのは振り出しに相当するのが「出生」で、上がりには豪華な食卓を囲んでいる家族らしき人々が描かれていることだ。さまざまな社会的な場面での衛生について網羅的な指示がなされており、この時点ですでに防疫が社会的なものであるとして提示されていたことが窺える。また、同セクションには『蝦夷人種痘之図』も展示されている。防疫のためのアイヌ民族に対する種痘の記録だ。左上には種痘に協力してもらう際に幕府から、、アイヌ民族へ与えられる品々が描かれている。ちょうどここには知識の非対称性を埋めて公衆衛生への協力に踏み切らせるためのインセンティブという関係が見られ、現代における協力金などの制度とも繋がるものが考えられる。疫病に抗するための知識自体の需要を目指すのではなく、行動の指針として大衆に受け止められるための「イメージ」であったり、報酬による具体的な行動の推奨であったりを通して防疫がなされていた面が浮かび上がり、ここに病原体/情報といった二重の意味での不可視の伝染が見受けられる。疫学的な知見と生活という二者の「身体イメージ」のすり合わせによらない、具体的な行動による結果の共有として、明治ごろの疫病は存在していたのかもしれない。

 Zone2は「身体を把握する」と題されている。主に、医学的なアプローチからどのように身体を把握していたのかという展示がなされているセクションだ。特に中国医学が視覚的な情報を絶対視することなく身体機能の面も絡めて理屈を組み立てていたという展示が興味深かった。「五臓六腑図」『訓蒙図彙』は中国医学に則った身体に関する観念の図像であり、その中には実際の臓器と対応しないものも含まれている。また、同じくZone2には明治時代日本の視覚障害者が指先の感覚をもとに鍼灸などを行っていたというパネルもあり、必ずしも視覚に拠らない形での医学的な身体イメージが存在していることが示される。一方、西洋医学では非常に緻密な解剖図などが展示されている。技術決定論的でもあるが、レーウェンフックらの影響で顕微鏡で子細に観察をする博物学的な思想が存在していたことは無視できないだろう。また、日本のものとしても「房事養生鑑」「飲食養生鑒」などが展示されている。これは身体がどのようにして機能しているのかを、臓器などの擬人化によって説明する錦絵であり、ここにも視覚の正確性を外れながらも「身体イメージ」に対してアプローチする方法が選択されている。解剖図には写真では代替不能な「強調」と「省略」という性質があるように、物理的な解像度と情報の性質には決定的な違いが存在している。そのような現代的な医学とはオルタナティブな形での身体の把握について、様々な提案のなされているセクションであった。

 続くZone3「身体への関心」はZone2「身体を把握する」と響き合うものがあり、こちらでは身体の境界線へと向けられた眼差しへの展示が多くなっている。やはり目を引くのは「しん板ばけ物尽」や「しん板化物尽」などの江戸時代における妖怪を扱った展示であろう。現代の観点からいえば決して倫理的だとは言えない考えではあるが、妖怪には人間のうち多数とは異なる身体的特徴を持ち、その強調された身体の各部がモチーフとされたものが一定数存在する。有名なところではろくろ首や一つ目小僧などだろう。また、眼鏡や杖、義肢などの身体機能を拡張する器具が日本へ導入された同じく江戸時代ごろの記録も展示されている。これら、異なる在り方の肉体や、自らの肉体と関係しながら「身体」として振舞う道具などへの眼差しが、様々な形で現れた記録として展示を見た。このセクションの展示のほとんどは江戸時代の日本で作られたものであり、西洋的な身体観との混淆の中で生まれたと思われるものが多く見られる。「父母の恩を知る図」は母胎の中での胎児の成長過程を示した図であるが、女性が浮世絵風のタッチで戯画的に描かれているのに対し、胎児の様子は視覚的に正確な形で描きこまれている。母胎内での胎児の様子というそれまで可視化されてこなかった「身体」が、西洋医学との出会いによって意識される対象になったのは非常に興味深い。また、Zone1の「種痘」『衛生寿護禄』が明治時代に作られ、家庭を単位とした防疫の指針を示していたのに対し、Zone3に展示されている「教育資料わかもと 漫画健康すご六」は昭和初期に作られ、身体のシステムと子どもの行動を結び付けた教育資料となっている。「身体イメージ」の共有を伴わない行為の指示という手法から、身体の中身という見えない部分を可視化し「身体イメージ」の共有を行いながら栄養教育を行うシステムへの移行が見られて面白い。

 最後のZone4「現代と未来の身体」では、これまでのセクションで確認してきたような、技術や認識による「身体イメージ」の更新/拡張が現代ではどのような形で行われつつあるのかにまつわる同時代的な展示がなされている。布施琳太郎がキュレーターを務めたオンライン展覧会『隔離式濃厚接触室』は、遠く離れた場所にいる人間が場所の代替となるものにアクセスできるようになりつつある時代において、改めて孤独の形式を提示したものである。オンラインでありながら、一人(一ユーザー)ずつしか接続することのできないウェブページとして開催された『隔離式濃厚接触室』は、現在も公開されているので詳細は避けるが、その展示内容によって「共有できない/しないという体験の共有」がなされる。上で一人(一ユーザー)と書いたが、現代において個人の身体はある意味では複数ユーザーの所有するメディアであるとも考えられる。Zone3で眼鏡などの身体機能を拡張する器具が身体化したように、身体もメディア化する。「手術支援ロボット『ダビンチ(da Vinci)』」を操作する医師はセンサーによる視界を感覚の入力、アームの操作を出力として認識するが、それは操作に対して機械が応答するというフィードバックがあって初めて成り立つ感覚であろう。つまり、それを因果関係として捉えると「挙動があるために身体である」ということができ、ここにも身体のメディア化が見られる。健康診断で出力される数値の羅列はそれまでは明確になっていなかった複数の「異常」を分類し、存在していたことが新しく発見された病気となる。身体はフィードバックによってその輪郭を明らかにする。デンマーク・ジェンダー博物館に所蔵されている「29の性別記号」では男性・女性を表す既存の人口に膾炙したシンボルを、他27の性別を表す記号と並列に配置することで相対化する。しかし、フィードバックによる身体の過剰な拡張には、共有されることのない、沈黙されなければならないものの剥落が伴う。数値の異常による病気の診断には、個人の体験が代替不能なものであることが違和感として残る。Zone2で見てきたような、特定の価値基準に拠らないオルタナティブな「身体イメージ」の存在は、フィードバックの加速によって損なわれていく。現代の疫病に応答して急速に移行していくオンラインでのやりとりに対して、一回性のある個人の体験としての身体を想起させるためのそれとして『隔離式濃厚接触室』は考えらえるのかもしれない。「記録版」として鑑賞者の映らない作品の鑑賞映像とウェブサイトのコードが展示されているのは、その当然見られるはずの身体の不在による一回性の身体への提案でもある。

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