マスク文学 2020年10月19日の日記

(note版では一部文章をカットしています。)


現実とフィクションが決定的に道を違える瞬間が存在する。未来として特定の年号が使われていたというのに、現実がその年号に追いついたときにそのフィクション内の出来事が生じていない時だ。もちろん、そのことでフィクションの中で扱われていた内容が損なわれるわけではないけれど、「現実と交差することはなかった」と一つ再確認することになる。


しかし、なにか特定の出来事が起こってしまった後に表現の方法を新しく模索していくのは面白い。例えば、今ならば私の身の回りの世界はマスクを着けているのがデフォルトになっている。これは既存のアニメの表現や小説における表情の描写とはかなり相性が悪い。細かい口元の動きなんかで感情を表現するべきところを、顔の大部分を覆い隠してしまう紙やら布が邪魔しているのだ。


こういった大前提が生じると、全ての作品が3つに分類されることになる。「その出来事が起こった世界」なのか「その出来事が起こらなかった世界」なのか「そもそもこの世界とは根本的に異なる世界」なのか。1つ目は分かりやすいだろう。今でいうところの「外を出歩く人間のほとんどがマスクを着けている世界」である。2つ目と3つ目の違いだけれど、2020年と表記していながら素顔で生活を営んでいるものが2つ目にあたり、もはや年号を指定しなかったりめちゃくちゃ過去だったりパラレルワールドだったりと、従う必要のない舞台設定になっているものである。この内、1つ目と2つ目はどうあっても現実の大きな出来事に「従う」か「逆らう」かの二択を選ばされることになる。大きな現実の出来事のフィクションに対する波及はこういった形で引き起こされる。創作においてあまりに大きい要素は惑星における万有引力のように、ただそこで創作をするというだけで生じる力のようなものだ。すでにBUMP OF CHICKENの存在するこの世界で、BUMP OF CHICKENに影響された音楽を作るのか影響されていない音楽を作るのかの二択になるのと似ている。あまりに大きい存在は否応なく後続の作品に対して二択を迫ってくる。


この分類を見誤らせると、叙述トリックもできるような気がする。具体的なそれは思いついていないけれど、2020年の物語であることがうかがい知れるようにしておきながら、終盤になって「この世界はマスクを着けていることが不文律のことになっている世界ですよ」と明かしてやることによって成立するトリックとか。異化作用ともつながる視点の変化が得られるような気がするけれど、実際に作品に仕立てるとなるとやっぱり結構難しいよなぁ。


現実とフィクションが互いに作用を及ぼし合うというのは紛れもない事実ではあると思う。その中で現実による攪乱を受けて一部のフィクションが淘汰されて以降のフィクションの在り方が変わるというのは、なんだか進化論における淘汰圧の仕組みに似ているような気がする。現実とフィクションを分けて考えると、言葉周りの生態系においてその相互作用を見落とすことになるのだと思う。お互いがお互いにどのようなフィードバックを為して、それによって向かう先はなにか、どのような攪乱が起こっているのかなど、考えるべきことは多い。フィクションと現実は不可分だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?