寝食を忘れる 2020年11月22日の日記


合算すると人生でどれだけの時間やっていることになるのだろうと考えること、ありませんか? 私はあんまりありません。漫然と生きているので。それでもたまにやむなく無為な時間を過ごしているときには「これ、人生を通して合算すればどれくらいロスしていることになるのかな」と考えずにはいられないこともある。


例えばスマホの起動時間。私の使っているiPhoneはかなり古い型であるので最新のものはもしかすると劇的に改善されているのかもしれないけれど、あれを起動するのには30秒ほどの時間がかかっているような気がする。もちろんスマホが起動している間なにもしていないわけではないので単純なロスとはいえないのだけど、それでも何かをしている間、同時にスマホを使えない時間(音楽を流したり、メモを取ったり)が存在することは事実だ。このような微妙なものが50年なり80年なり積み重なるとそれなりにまとまった時間になることは想像に難くない。ナチュラルにそれだけの時間を生きることを想定してしまったけれど、そんなに生きられる保証もない。死を忘るなかれ。


上の文章を書いていて気付いたけれど、私が今書いた「ロスしてるな~~~」と言っている「時間」は厳密には「時間」ではないような気がする。正確には「その時間、その作業がなければ他に進めることができた作業の機会損失」のことを指している。本を読みながらスマホを起動していても時間をロスしたことになるのは、本来は「本を読みながら音楽を聞く」という同時並行の作業を行えるはずの時間で、片方の動作しか行えなかったがゆえに起こっている「ロス」だ。私たちが普段日常的に使っている「時間」も同じように言えるはずだ。日常的に使われる「時間」という言葉は一本の線の色を塗り分けるようなものではなく、楽譜のように時系列に沿って様々な作業が同時並行的に入れ代わわり立ち代わり行われる、その五線譜上の各パートの休符なり音符なりを指しているものと思われる。極端な話を言えば、私はいま呼吸をしながら瞬きをしながらレルエを聞きながら末端冷え性の足を擦り合わせながらキーボードを叩いている。


とはいえ、その「ロス」が単純に悪いことかと言うと、そうでもないような気もする。音楽だって引き算の美学と言いますか、音を敢えて鳴らさないことで深みを出したりする技法もあるわけで、密度が高ければ高いほどいいというのもまた誤りなのだと思う。私なんかはキャパシティが低いのであんまりにも高密度で色々なことができてしまうとおそらく脳みそがパンクしてしまう。ある程度、「ロス」と呼ばれるような時間でタスクを切ってやらないと上手く整理がつかないような気がするのだ。無駄であること自体に意味のある時間といいますか。必要悪といいますか。


それに、よく考えてみれば人生における大半の行為(「時間」と言い換えることもできる)は大半が「ロス」である。なにか大きな目的を達成するためのその過程は別にそれ自体を目的とはしていない。テーマパークで遊ぶのが目的であって、その移動で高速道路に乗ることが目的ではない。私たちはその高速道路でお手洗いに寄ることを「ロス」と呼んでいるけれど、大きな次元で見ればそれは高速道路に乗るという行為と大差はない。


目的と過程では、過程の方が長くなることが往々にしてある。それは間違いなくいわゆる「ロス」なのだろうけど、その「ロス」自体を楽しめれば(半目的化すれば)それなりに自分の中で納得がつけられるような気もする。それに、全ての行動に目的があるというのもあまり私には想像がつかない。「起動待ちで音楽が聴けないロス!!」なんて言っているけれど、音楽を聞くという行為にはあまりこれといった目的はないし。


それはそうと、食事と睡眠の時間だけは無駄だと思う。早く寝食を本当の意味で忘れられるようにしてよテクノロジー……。

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