からだよ 2021年1月18日の日記


そのとき読んでいる文章に流されるようにして書く文章のかたちが変わってしまうので、やはり文章を書き慣れているとは言えないのだと思う。肉体的なものは苦手で、できるだけ書くのも読むのも避けてきた。


だけど、昨年くらいから少しずつ変わってきているようで、川上未映子『夏物語』『乳と卵』や、村田沙耶香『殺人出産』、松浦理恵子『ナチュラル・ウーマン』など、肉体から切り離されていないところに精神を置いた作品も読めるようになってきた。向き合ってみようと思えるだけの体力がついたのかもしれない。


肉体、普段からすごく苦手なんですよね。食べなければ死んでしまうし、死んでしまう前にお腹が空いて、「腹が減ったから食う」という行動に出る。眠くなったら寝るし、寝たくなくとも寝る。髪は伸びるし、前髪が目に入ったら痛くて涙が出る。寒暖差で自律神経はめちゃくちゃになるし、呼吸が苦しくなるし、呼吸が苦しくなると「苦しい」と感じてそれ以外なにも考えられなくなる。普段は「自分がコントロールしているのだ」と考えている精神が、肉体に従属している。


自我は「私は精神に所属している」と考えているらしく、それゆえ「私とはなにか」を考えたときに肉体よりも先に「それを考えている主体」としての精神が候補に挙がる。そのため肉体は精神がコントロールしていると考えてしまっているらしいが、それは違う。不随意運動は精神による制御を外れたところで起こるし、空腹も眠気も前髪の長さも精神は押さえつけられない。


つまり、この皮に包まれている全ての物質および現象を「私」と規定したのならば、精神の他にも「私」が存在することになる。そういう意味では、思考をもって知り得る「私」というものはあくまで思考を介したものだけであって、一次情報としての「私」の全体を「私」は把握できない。我思うゆえに我ありは精神による精神の存在肯定にすぎないのだ。


水沢なおの『美しいからだよ』を読んだ。イントネーション、どっちに置くのかなと思っていたけれど、そのどちらもが正解だった。むしろ、そのどちらにも置けるということにこそ意味のある題だったのだと思う。


詩で肉体的なことって表現できるんですね。恐らくは「私」における精神という部分は言葉が担っているのだと思うけれど、その精神の外側に存在している「私」、つまり「からだ」は、概念やメタファー、映像によって表現されている。言葉を概念が修飾しているのか、概念が言葉を修飾しているのかが揺らぐような文章が並び、それがとても精神と肉体によって構成されている「私」を表しているようで良かった。


このような理由から、中でも特に『イヴ』が好みでした。

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