ストロングゼロメタファー論 2020年10月22日の日記


ストロングゼロを飲んだことはありますか? そう、アルコール度数が高く量も多いわりに安いあの缶のお酒です。私は飲んだことありません。肝臓をやってしまったので今後しばらく飲む予定もありません。断酒というやつですね。脂質や糖分もしばらく控えめにしなければならないようです。そもそもあまり食にこだわりがなく、適当で気ままな食生活を送っていたのでそこまで影響があるわけではないのですが、禁止されるとなんだか辛く感じるのは「選択の幅が狭まった」という、あまり合理的でない不快感からくるものなのだろう。この文章は今日の日記の本筋とはあまり関係がありません。


文学というフィールドにおいて、なぜだかストロングゼロの流れが来ているらしい。低血圧なモラトリアムを描く最近の(主にアマチュアの投稿する)小説の中には「部屋のローテーブルの脇に放置されたままのストロングゼロの缶」がやたらと出てくるらしいのだ。真偽のほどは定かではない(別に私が統計を取ったわけではないので)けれど、ない話ではないのだと思う。


なぜストロングゼロは小説の描写に使われるのか。それはきっと小説において好ましいとされるメタファーの条件にあまりに合致するからなのだと思う。優れたメタファーとは、表層から対象の性質を暗示することで物語に深みを出させる効果を持つ。読者がそこに深みを見出す工程は「その描写がメタファーであると気付くこと」「メタファーの示す性質を理解すること」の二つに分けられる。悲しいシーンにおいて突然挿入された風景描写があるとしよう。黒々とした分厚い雲から降ってきた、主人公の頬を洗い流すような突然の雨。これは「なるほど、この風景描写は主人公の心理状態を示すためのものなのだ」「重厚なものから突然降ってきた雨はどうにもならない重く逃れようのない現実の厳しさなのだろう」と段階を踏んで理解する。


ストロングゼロは綺麗にこの構造を射抜いている。「部屋のローテーブルの脇に放置されたままのストロングゼロの缶」というフレーズだけで、ストロングゼロという固有名詞の持つ強烈な個性から読者はメタファーであることを嗅ぎ取り、そのフレーズのみで「お金をかけることも見栄を張ることもせず、アルコールのためにアルコールを摂取するある種の悟りを開いた人物像」を表現することができる。どこか爛れた生活感を演出するのに一役買ってしまうほどの強烈なメタファーとして、ストロングゼロは便利に使われている。ストロングゼロという文脈が広く共有されているからこそ、ストロングゼロは面白ワードたり得るし、小説の中で人格の表層部分として扱うこともできるのだ。ストロングゼロは、文学における一種の現象だ。


小説において固有名詞というものは強い力を持つ。固有名詞にはそれぞれ固有の物語が存在し、そのため程度の差こそあれ小説の中に別の一つの物語を挿入することができるのだ。これは目新しければ目新しいほど「固有」度は増す。織田信長よりも、フォロワーの名前の方が「固有」度は高い。解釈されつくされた対象は、物語としての流れを失い、断片化する。フォロワーの名前はこれまで多くが記述されていない分、目新しい物語として、引用先の小説に目新しい意味合いを持ってきてくれる。ストロングゼロはちょうどその過渡期にあるのだと思う。


「ハト」といえばなんだろうか。もちろん平和の象徴だ。これは散々使われた結果、ある意味解釈が固定されてしまった表現だ。ならば「ガチャ」はなにを象徴する概念だろうか。もちろん、漠然としたイメージは広く共有されているはずだ。それをメタファーだと捉えさせるだけの解釈を提唱することが文学における一つの役割であるのだと、私は思う。ストロングゼロは「ガチャ」から「ハト」になりつつある。その変遷を眺めることは、メタファーを捉えるにあたって面白いことなのではないかと思う。

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