グリッチと幽霊 2020年11月23日の日記


小学生のころ、知人に騙されて「ウォーリーを探さないで」をやったことがある。言わずと知れた「検索してはいけない」系のFlashだ。私以外にも心に深い傷を残している人は多いだろう。その内容はかの有名な「ウォーリーを探せ」よろしく、一枚の書き込みのすごい絵の中から特定の人間を探すものなのだけど、「探さないで」ではその絵の中には指定されている人物は描かれていない。そんなこともつゆ知らず画面を凝視して頑張って探していると、突然怖い画像が表示され絶叫が再生されるというものだ。悪質。純粋な小学生であった私は知人の悪意を見抜けずに、完全に引っかかってしまった。くそう。


それがきっかけだったかはもう忘れてしまったけれど、今でも私はホラーがあまり得意ではない。特にびっくりホラー。脈絡なく急に画面いっぱいに躍り出てきて巨大な音を鳴らしておどかしてくるの、あまりに理不尽。なぜかはよくわからないけど、洋ホラーなんかにはその要素が強いような気もする。完全な偏見ですが、後腐れのないカラッとした恐怖といいますか。私はあの理不尽なホラーが苦手だ。怨念だなんだと幽霊側にある程度の理屈が通用するほうがまだ納得できる。びっくりはいただけない。普段から貧血気味であるせいか、情緒が突然動くと露骨に体調が悪くなるし、手足が冷える。もっと血が欲しい。鶏の肝臓をたべたい。


ホラーの話をするとどうしても『ドキドキ文芸部!』のことを思い出す。テキストでの実況をしながらのプレイだったので合計6時間ほど画面と向き合っていたんだけど、あまりの怖さに幾度となく(もうこの辺りでやめておこうかな……)とか(なんで好き好んで恐怖を摂取しているんだ……)とか、そういったことを思っていた。びっくりホラーとしての作法を押さえつつも、さらにゲームという媒体を活かした様々な演出に面白いように怖がらされていた。プレイの感想記事はまた別で書いたのでここで詳しくは書かない。


しかし、よくよく考えてみると『ドキドキ文芸部』のホラー演出は非常に現代的であるような気がする。バグを模した演出の恐ろしさというのは、もちろん見た目の怖さというものもあるのだろうけれど、それ以上に「本来のあるべき姿からの逸脱」というズレに恐怖を感じているのだと思う。DDLCは意図的な演出としてそれをやっているけれど、バグでビジュアルが変化することに対する恐怖というのはデジタルの時代になって広がり始めたのだと思う。


グリッチアートが感受性を揺さぶってくるのもおそらくはそれが原因なのだろう。データの残骸を(ピュア・グリッチでない限り)人工的に作り出せてしまうというのは、幽霊と区別のつかないものを人の手で作り出せてしまうことに似ている。半分異世界に足を突っ込みつつあるデータをビジュアルで見せてくるグリッチアートは現代における黄泉比良坂のようなものだ。


そういえばPK shampooのPVにもグリッチアートは多用されている。あれ、すごく好きなんですよね。「星」のPVなんかはインターネット自体を異化してしまったような凄みがあるので、バグ演出好きの方は必見です。


しかし、バグに恐怖を感じるというのも、時代の変化によって目先が変わっただけなのかもしれない。昔ならばテレビの砂嵐が恐怖の対象となっていたし、届けられる新聞が○○だ、みたいなホラーだってあるし、もっと遡ってもやはり「生活に根ざしたものが突然見せない姿を見せる」という形でのホラーは存在する。普段自分が存在すると思っている世界からの裏切り。手元にあったものが異物になること。コントロールから外れること。これらは根源的な恐怖なのかもしれない。

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