耳たぶ爆発 2020年8月30日の日記

今日はあまりに眠たいので、いくつか短いトピックをまとめて日記にしてしまおうと思います。


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カンブリア爆発という概念がある。古生代のカンブリア紀を境に化石における動物の種類が激増したという、進化における特異点のように扱われることのある現象のことである。実はこれを「進化が進んで色んな生き物に別れたんだね」と捉えるのは正確でない。というのも、カンブリア爆発の原因は「そのころを境に系統樹が枝分かれしたから」ではなく、「そのころを境に「化石が残るような外骨格を獲得した」生き物の増加」だからである。もともと系統樹が枝分かれしていたところに、外骨格という要素が加わったことによって化石が残るようになり、一見一気に枝分かれしたように見えたのだ。ちなみに外骨格が必要になったのは三葉虫などの生き物が眼を獲得し、柔らかい生き物をものすごい勢いで淘汰できるようになったからと言われている。眼はすごい。


疑似相関なんかについて考えるのが私は結構好きだ。面白い例としては一部地域ではコウノトリが増えると赤ん坊の出生数が増えるという関係があるのだが、それはシンプルにコウノトリのコウノトリの飛来する季節と出生率の上がる季節が上がる時期が偶然重なっているだけのことに過ぎない。共通項となるトリガーをそれぞれに持ちながら、そのトリガーが隠れてしまうと引き金を引いた結果の方に相関を見出してしまう。カンブリア爆発についても(疑似相関とは少し違うけれど)「化石」という要素の見落としがあったことによって、特定の時期に系統樹が一気に別れたという、問いの間違っている謎が導かれてしまっていたというの興味深いことだ。なにかを信じ込む前に、一瞬「本当にAがBを引き起こしているのか」を考えてみると有意義かもなぁと思う。


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世界で初めてウニを食べた人はすごいという表現を耳にすることがある。わかる。コロンブスの卵じゃないけれど、今となっては当たり前に享受している叡智でも、それをはじめに思いついて実行した人がいるのである。もちろん、その成功の裏で「世界で初めてトリカブトを食べて死んだ人」や「世界で初めてカエンタケを食べて死んだ人」がいるわけだが。


そういった文脈で「言葉や比喩として浸透しまくっているけど、最初にそう表現した人凄いな」と思うことがある。例えば、「耳たぶくらいの柔らかさ」という表現。クッキーなんかを焼く時に生地の捏ね具合でよく目にするけれど、あの柔らかさを他でもない人肉に譬えたセンスに、普段誰も目を向けないのは奇妙なことのように思う。無の状態から耳たぶには譬えんだろ。


割と有名のような気はするけど、英語の慣用表現でraining cats and dogsというものがある。「どしゃ降り」という意味なんだけど、これを「猫とか犬が降ってる!!!」と表現するのは我々日本語圏の人間から見れば突拍子もないことのように見える。しかし、突拍子がないだなんて「自腹を切る」のような表現を違和感なく使っている日本語話者には言われたくないだろう。ハラキリですよ、ハラキリ。フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリですよ。


なにが言いたいかよくわからなくなってしまった。なんとかいい話風に丸め込んでこの文章にオチをつけなきゃいけないんだけど。そうだ、こんなのはどうでしょう。一見離れた場所にある語彙を、別の場面において引っ張り出す能力は、言葉や物事の本質を捉えてインデックスをつけていないと為し得ないことだ。「耳たぶ」という概念を多角的に捉え、その中でも「柔らかさ」に注目した語彙を獲得していたからこそ、最初にその言葉をレシピに採用した人は生地の柔らかさを的確に譬えることができたのだ。現在一般的に使用されている語彙のインデックスだけでなく、思いもよらぬところに言葉を引っ張ってくることで、現在持ち合わせている語彙よりも精度の高い表現が可能になる。そのことを「耳たぶくらいの柔らかさ」は教えてくれているのではないだろうか。よし、これでまとまったんじゃないかな。うっすいことを書いてしまった。

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