カラフル/地味な気球 2022年5月19日の日記

なにも終わらないので自由連想をやります。フロイト流の分析をしたい方がいらっしゃればどうぞ。

読んでいる小説のラストシーンに、大量の気球が浮かび上がっていく描写があった。気球の形状や仕組みについてはいくらかの言及があったものの、そこには色についての説明がなかった。敢えてだったのだと思う。

わたしはそこに勝手に佐賀のイベントのような色とりどりの気球の姿を想像したのだが、作中のそれは別段見られることを意識していない――たとえば熱を利用するものであれば効率を求めてなにか地味な色になるであろうことが想像されるような――ものだった。しかし、書かれないことのみによって、開放感のある色合いと地味な色とが重なり合った状態で文章の中に存在することができる。ミステリにおける叙述トリックがまさにそれを使ったものだとは思うのだが、文章は書かないことによる印象の重ね合わせの特異なメディアなのだろう。開放感のあるラストで飛ばす気球は、地味なものよりは確定していないものの方がよいという考え方はあるだろう。決して視覚的にならないことに裏打ちされた視覚的効果。

既製服にタグがつけられたのは、ブランドの模倣品が流通することを防ぐためだったらしい。モノとしてそこにあるものが本物であるか否かを区別するのは服を見る目のないわたしのような人間にとっては非常に難しいことであり、どこから生まれたものであるのかを示すタグの存在はありがたいものではあるのだろう。

一つの型紙から生まれる複数の服における「本物」という考え方は非常に面白い。これは現代でいうところのデジタルデータと3Dプリンタの関係に似ている。「本物」であること担保するのはあくまでデジタルデータの側であり、そこから生まれた出力物はいくらでもコピーすることのできるものになっている。コピーというと現代ではデータの複製に使われることが多いような気がするが、知的財産について考えていると、データ上に存在しているものを現実に持ち込むという操作の方にこそ複製への抑止力の低さのようなものがあるように思われてくる。

かたちあるものはすべてアウラを失い、それを規定する数字の群れこそが本物となる。その数字は人間の処理能力では直感的な知覚の敵わないサイズになっているはずだ。書かれないことでようやく人間はそこになにか見せたいものを現出させることができる。書かれてしまうことで本物でなくなるものがあり、それはデータから具体物へと複製される際に損なわれるなにかと根の部分で響くものであるのかもしれない。何色かわからないからこそカラフルになる気球は、きっと本物だ。

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