ハムスターをどうにか 2021年4月29日の日記

想像の中の自分の失敗で凹むことが結構ある。情緒どうなってるんだと思うのだけど、つい先ほども家の中で段差が目に入り、それに躓いて転び、手に持っていたiPadの画面をばきばきに割る自分の姿を想像して勝手に凹んだ。やりかねなさがそうさせるのだと思うけれど、けっこうこれが辛い。

この傾向は小学生のころからあって、誕生日(だったと思う)(記憶があやふやなので)プレゼントとして親にCDを買ってもらったのだけど、ケースから取り出したりCDデッキに入れたりするときに破壊してしまうのではないかと考えているうちに、めちゃくちゃ怖くなって泣いていたのだ。自分の不注意ですべて台無しになるということがあまりに怖くて「嫌だ~~~なにがかはわからんが全部嫌だ~~~」と絶望していたのだけど、それは今も誤魔化しているだけであまり変わらないのかもしれない。むしろ、大切なものが子供のころよりも増えたせいでいつその「やってしまうかもしれない。いや、私ならやりかねない」が襲ってくるかわからないので、よりタチが悪いかもしれない。

以前、ハムスターなんかの小動物が怖いという話をしたけれど、それとは少し性質の異なる怖さなのだと思う。あれはハムスターやガラスのような脆い存在は、自分の意思一つでどうにか(婉曲表現)なってしまうという点において、いまハムスターがそうなっていないのは、ただ私の意思が倫理に則っていて破壊に向かっていないというその一点だけに依拠しているという怖さだ。シンプルに言い換えると、今の私はハムスターをどうにか(婉曲表現)したくはないけれど、私がもしどうにかしたいと思ったらどうにかできてしまうのだいう、委ねられている感といいますか。一方的な信頼と言ってもいいけれど、この場合の信頼を裏切る怖さは、ハムスターを裏切るというよりも私自身を裏切ると言った方がその怖さの本質に近いような気がする。

要は、この二つの恐怖は「私がなにかしてしまう恐怖」と纏められるけれど、その何かしてしまう原因が「意思が介入できない不注意」と「意思の放棄」の二つに分かれているという点において、大きく異なるものとなっている。おそらくハムスターをペットとして飼うとこの二つの恐怖が両立して私の精神がとんでもないことになるので、絶対に私はペットは飼えない。人間関係についてもそうかもしれないけれど、ある程度人間は私がどうにかできてしまう範囲が小さいので恐怖は小さい。別種の恐怖はあるけれど。

今日、なんの話だったんだ。

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