モノ<くらげ<ヒト 2020年6月19日の日記


修理に出していたiPadが手元に戻ってきた。全く心当たりはないのに二月ごろに突然起動しなくなったのだ。「なにもしていないのに壊れた」という言葉が揶揄されることがあるけれど今回ばかりは本当に「なにもしていないのに壊れた」と言いたくなるような状況だった。けっこう丁寧に扱っていたんだけどなぁ。


極度のものぐさである私は、デバイスの不在にかなり不便をしながらもサポートに連絡するのが面倒で修理をずっと先延ばしにしてしまっていた。ものぐさで片付けていいレベルじゃないと思う。そんなこんなで五月末になってやっと重い腰を上げて修理に出して、六月中旬になってやっと復活したというわけだ。けっこう財布にダメージが入った。プラスの買い物ではなくてマイナスをゼロに戻すという用途で給付金が半分以上吹っ飛ぶのは少しむなしいものがある。


そんなこんなで久々にiPadを手にしたんだけど、なんだか返ってきた(『帰』の方の漢字をあてたくなってしまう)のを実感しているうちに少し泣いてしまった。かなりのパーツが入れ替わっているし、完全に元のデバイスというわけではない。それでも、使い込んだ道具が手元にあるというだけで胸にこみあげてくるものがあった。


私は心の通わないものに対して一方的に心を傾ける関係性が好きだ。『少女終末旅行』でも最後のケッテンクラートのシーンでずびずび泣いてしまうし、どの作品だったかは忘れてしまったけれど、幼少期にずっと振っていた竹刀が大人になった登場人物の危機を救ってくれる展開に胸を熱くしてしまう。生き物の中でもトップクラスにくらげが好きなのもそれが大きい。行動なんかである程度感情を察せてしまう生き物よりも、心が通うように思えないくらげなんかの方が安心して好きになれるのだ。


汎心論という考え方がある。本当にざっくりとだけ説明すると(というか私がその程度の理解しかしていない)全ての物体にはあらかじめ精神のようなもの(クオリアとか)がなんらかの形で存在しているのではないかという考えのことだ。一見目的論的にも思えるけれど、もっと根本的に「物理現象を構成する最小の単位」に意志が働いているとすれば、人間だけでなく他の森羅万象にも精神(必ずしも人間の創造しうる範囲の"精神"でなくてもよい)があるのではないかというそれだ。アニミズムっぽい考えと捉えてもらってそう問題はないと思う。


さきほど「モノは心がないから自分の思いを無邪気に投影できるのがいいよね」という旨のことを書いたけれど、それは上の考えに反するものではない。問題はこちらがその表層に「心」と呼べるものを発見できるかどうかなのだ。くらげだって脳という器官で人間と同じように電気信号をやり取りして状況を常に判断しているわけだけど、そこに見出せる「心」は明らかに犬や猫のそれよりも少ない。


付喪神といって、日本には百年使われた道具には魂が宿るという伝承のようなものがある。これだって物にはあらかじめ「心」が存在しないけれど、長い時間(≒信頼や愛着や執着)を付与することによって「心」を見出すという操作だ。汎心論とは少し違うけれど、これだって「目には見えない心(のようなもの)」を扱った発想といえるだろう。妖刀だって見た目から「何かを考えている」と考えるわけじゃなくて、その周辺の物語や事実から心を見出しているのだ。


なんだかいろいろと煙に巻くような話を書いてしまったけれど、一旦まとめることにする。モノには「心」がないように見える。だけど、その周辺の物語に「心」を見出す(投影する)ことはできる。モノを観測する人は好きな「心」をあてがうことができる。上記の作用によって、人はモノに救われることができる。これはあくまで人間による能動的な仕草である。といった感じでしょうか。


私がiPadの帰還に感じ入ってしまったのもこういうことなんだろうなぁ。このiPadを使って色々と書いたり描いたりしていたのでそこにまつわる「自分の」物語の登場人物としてこのiPadを捉えているからこそ舞台装置としての愛着がわいているのだと思う。人間は道具がなければ大したことのできない種であるので、こうやって道具に「自分」を見出してるのかもなぁなんてことも思った。


なにはともあれ帰ってきてくれてよかったです。でっかい画面で電子書籍が読めるのは嬉しい。

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