AI/書/多世界解釈 2022年10月2日の日記

さいきんになり、midjourneyなどAIによる画像の生成がかなり実用的なレベルで語られるようになってきている。文章はそれと比べるとAIの自動生成に完全に頼ってつくられたものがひとつのまとまった作品として扱えるほどの段階にはないように見えるけれど、それでもAIをツールとして用いる書き手は徐々に増えている。なにか展開が思いつかない時にはAIに試しに書かせてみて、使えそうであればそれを拾ったり、あるいは「それよりはこういう展開のほうが……」と某ファストフード店理論のような仕方で執筆におけるひとつの推進力に据えているのだろう。だろう、と書いているのは、わたしは現時点では執筆にAIを導入していないので又聞きの知識であるからだ。

執筆にAIを用いることについては、記述において、著者というひとりの人間がひとつの作品を書き上げるという一対一対応の親子関係が崩されることであるともされることがある。なにか書き手の存在が先にあってそこから作品が出力される、という階層構造については、ポストモダン的にはもはやモデルとしてあまり適しているようには考えられないため、AIを使ったから・・自由意志が損なわれるという風には思わないが、その意味において、わたしたち書き手は記述の歴史のどこかで自由意志を一部なにものかに譲り渡したものと考えられる。AIによる執筆は、その段階が進んだだけに過ぎず、自由意志を問題とするのであればAIを責めることはお門違いといえよう。

はじめに思いつくものとしては、まさにいまわたしが叩いている文字入力ソフトにも使われている予測変換だろう。漢字をひらいたり閉じたり、送り仮名を教えてくれたり、果ては次にどの言葉を続けるか・・・・・・・・・・・なんかについても提案をしてくれたりする。あまり意識されないようにも思われるが、これも立派な自由意志の譲り渡しであり、視野を広げればエディタの改行字数やウィンドウの配置などのユーザインタフェースに無意識のうちに影響されて、書かれる内容を変化させていることに気付く。この段落をここで切っているのも、エディタのうえでちょうど「話題を切るのにちょうどよさそうな」塊になったからだ。

つまり、わたしたちはなにかに文字を書きつけるという行為のなかで、そのツールの性質によって意味内容を変化させられているということになる。文字というものが生まれ、それはたとえば漢字であれば亀甲へ彫り込んでいたいた時代にはその削るという動作そのものが書かれる言葉に影響を及ぼしていたはずで、なにかを書くという行為を通して初めてそこに現れる言葉にわたしたちは接することになる。脳のなかで書かれた言葉と、実際にツールを介して世界に出力された言葉は別物であり、わたしたちは書くという行為を通して、初めて世界に接することができる。

いま考えていることとしては、伝統的には「書」と呼ばれるような、身体とメディウムの接触によって生まれるこういった図像を全く異なる仕方で発達させてきたオルタナティブな知性の可能性についてというものがある。ファーストコンタクトもののSFにおいて、知覚の様式というものは非常に重要な概念となるわけだが、単に感覚器の生理学的な特性によるアプローチだけにとどまってしまうとユクスキュルの言うような環世界(ウムヴェルト)を捉えることはできないだろう。たとえば、(めちゃくちゃ雑SFにはなるけれど)多次元方向に広がって無数の分岐を持っている多元宇宙に対して直感的に操作を加えることのできる知性体がいたとすれば、宇宙の分岐に組み込んだ恣意的なパターンとそこに生きる知性体そのものが関係することによって、なにか書と呼べるような行為がなされるのではないかとも思うのだ。フォロイー氏よりAIと多元宇宙の関係についてふわっとアイデアを伺ったのでわたしなりに打ち返してみたがいかがだろうか。世界の分岐を操作できるような多元宇宙にまたがった生命体においては、世界の選択とそこに生きること自体が書となり、彼らは自由意志の及ばない範囲のことをAIまたは運命と呼んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?