文学フリマ東京 2022年5月29日の日記

に行ってきました。わたしはふだん西日本の方にいるので文学フリマは京都や大阪に顔を出すことが多いのだが、いちど空気を吸ってみたいなと思い、深夜バスに揺られながら会場である流通センター第一展示場に向かった。深夜バスは隣の人体が「乙」の字になっていたり、よりにもよって煎餅を貪り食っている猛者がいたりと、およそ人間が眠れるような空間ではなく、おそらく当日は眼の下が黒々とした状態でサークルを回っていたのだろうと推察されるが、みなさま人間として接してくれたので本当にありがたかった。ふだん「べつにわたしは人間でなくてもいいなと思っていて……」と語っているが、いざ優しくされると「人間扱いしてくれる……うれしい……」になってしまうので、わたしの心をかき乱すためにもどんどん人間扱いしていただければと思います。

今回はかなり時間があったので約1,000ブース全てを見て回ったのだけど、これだけの人間が文学を志してこれだけの人間が文章を作ったのだと思うとなんだかくらくらとしてしまった。入場者数は5,000人を超えていたということだったのだけど、それが納得できてしまうくらいの人間でごった返していた。読書(というか文章を目で追ったり耳で聞いたりする)というのは基本的にはひとりで行う行為であり、読書会なんかをやるにしても、それらが一通り終わったあとのことになる。文章を読むという行為それそのものは真に孤独なことなのだけど、それを孤独な行為だと考えることで見落とされてしまうものがある。文学フリマはその後者を直感的に受け取ることのできる良い場だな、というようなことを参加するたびに思う。わたしはすぐに人酔いして隅の方で目を回していましたが。

楽しみにしていた本はたいてい購入できたし、「いつも楽しく読ませていただいています……へへ……」と使い慣れていない表情筋を動かすこともできてとても楽しかったのだが、今回はせっかくなので意識的にふだんは読まないような本も購入させていただいた。世界の全ての文章を読むことは現状の技術ではとうてい不可能なことで、それは小さめの図書館くらいのサイズであっても同様だ。だからわたしたちは読む文章を選ばなければならないし、その選択/取捨こそが読書であるともいえる。そういった限られたリソースの取り回しというものについて考えたときに、なるべくならば広いものに触れたいなということは思ってしまう。一冊を読むことは、比率で考えるとその奥に大量の読まない本を産むことでもある。そんななかで広いものを志向することは決して筋の悪いやり方ではないはずだ。

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