年齢ソング 2020年11月24日の日記


普段聞いている「年齢について歌った歌」がだいたい年下になってしまったことに愕然としている。高校球児が年下に、だとか、テレビに出ているアイドルが年下に、だとかはよく聞くような気がするけれど、聞いている音楽が年下になっていることには思い至っていなかった。KOTORIの「19歳」、Hakubiの「22」などの誰か他の一般的な他者を指したものでなく、私小説的に歌っている現在の年齢を歌っている曲を思い浮かべただけでもいくつか思い当たるものがある。


反対に、生まれた年を歌った曲もある。indigo la Endの「1988」とか、andymoriの「1984」とかリーガルリリーの「1997」。KOTORIにも同じく「1995」がある。羊文学の「1999」は生まれた年ではないみたいだ。表現者にとって自らの生きてきた時間は一つの大きな武器やアイデンティティとして機能するためか、年齢ソングや誕生年ソングは名曲になりがちであるという「あるある」が存在する。


年齢ソングと誕生年ソングは厳密には意味合いが異なる。年齢ソングは「いまここ」という現在形、あるいは「ここまで」という現在完了形として作られていて、あくまで「今」に軸足を残したままそのもう片方の足を過去なり未来なりに(多くの場合は過去だけど)へと伸ばしてやることで歌詞になっている。それに対して誕生年ソングはあくまで「あのとき」という過去形であるため、ノスタルジーが漂う曲が多くなる印象がある。もちろん、あえて裏切ってくるようなものもあるけれど。


物心がつくのがあまりに遅かったからかもしれないけれど、私と同年代の人間がこれまでの過去を振り返っていると見えている世界の違いに驚く。いまだに私は「生まれて間もない」と(多少の誇張こそあれ)思っているので、「あのころ」として学生時代を振り返って歌にできていることがなんだかずいぶんと眩しいことのように感じられてしまう。ちゃんと生きてた人なんだなぁといいますか。


良くも悪くも、若者の叫びというものはコンテンツになる。パワーを持て余してどこにぶつけてよいかわからずにその身を燃やしている姿は絵になるけれど、歳を重ねると同じ燃焼の形をとることは難しい。特定の要素を持つ人間には、その人間の在り方自体に文脈が発生することがある。子供が無邪気な文章を書けばなんだか曇りなきまなこで真実を言い当てているっぽくなるし、死の間際の人間が書く文章も同様だ。なんらの状態が読み手側に伝える詩情にブーストをかけることがあり、「若者の今」もその形態の一つだ。私はその「若者」のくくりからは気付けば外れてしまっていたので、いまさら年齢を叫んでもなんのブーストにもならないわけですが。これからは生まれた年を歌い上げるより他ない。


しかし、棘を瑞々しさでコーティングできなくなってからでも年齢ソングを出すアーティストもいる。神聖かまってちゃんの「33才の夏休み」やクリープハイプの「二十九、三十」なんかがパッと思いつくものだろうか。バンドにも表現者自身と楽曲の距離が近いものと遠いものがあるのだとは思うし、私はどちらも好きなんだけど、こういった年齢を重ねてからの年齢ソングは表現者と楽曲を切り離せないような曲を普段から作っているバンドにこそ映えるものであるような気がする。私もこれからもよほどの科学のパラダイムシフトが起こらない限り年を取り続けるのだろうし、今はまだ年上である年齢ソングも、いずれ追い越す時が来る。もう瑞々しさがあるとは到底言えないけれど、それでも「○歳になりましたよ」とお出しできるような表現のすべを持って生きていけたらいいなぁと思っています。


それはそうとindigo la Endの「1988」は名曲。アルバム通して聞くとより沁みます。ぜひ。

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