信頼できない語り手 2020年6月21日の日記


『ファイト・クラブ』を観た。映画にはまったく明るくないので完全に前情報なしに見たんだけど、すっごく面白かったです。教えてくださったフォロワーさんに最大限の感謝を……。


今日の日記では『ファイト・クラブ』の重大なネタバレを含む文章を書くと思います。未視聴での閲覧にはお気を付けください。


最近多少映画を見るようになってつくづく感じるのは、映像媒体における人称の遊びしろだ。小説は文章のみで逐語的に説明するという制約があるために「誰が」「何を」見ているのかが直接的に示される。映像でもフォーカスの当て方や視点の誘導なんかで一枚の絵のどこに注目するのかは描かれているのだろうが、小説ではそもそも視点人物の意識に上ってこないものは存在しないものとして扱われることになる。こういった制約があるために小説は同一の文章の中での人称の幅が狭く(一人称と三人称をはっきり行き来したりすることが少ない)、映像はその辺りの自由が利きやすいのだと思う。


どちらが良いというわけではなく、そういった特徴があるよねという話がしたかった。小説だってそういった人称の「思い込み」を活かして叙述トリックを掛けてきたりするし、映像でも敢えてずっと一人称視点で撮影することで意味を込めたりするわけだし。ただ、特性として映像は叙述トリックがやりにくいのだと思う。思う。


思ってたんですけどね~~~あんな叙述かまされたらなにも言えなくなっちゃいますね~~~


叙述トリックにもいくつかの種類が存在するが、フーダニット(だれがやったのか)が重要になってくる作品では往々にして「人間」を誤解させる手法が登場する。人間と見せかけて猫でしたとか、青年と見せかけて実はお年寄りでした、とか複数の人間をあたかも一人の人間に見えるように書いてみたりとか、そういうやつ。この手のトリックはかなりの割合が映像になることで効力を失うトリックであるが、ほぼ唯一といっていい例外が「信頼できない語り手」だ。


小説でも映像でも「一人称視点」という形を取ることによって、視聴者に流れ込んでくる情報はすべて「視点人物というフィルター」を通した情報に変化する。つまり、その人物にとってリンゴが黒く見えるのならば、一人称視点ではリンゴは黒いものとして描写されるということ。私がここで日記という"事実を書く"媒体で「宝くじ3億円当たりました☆」と書けばそれは信頼できない語り手だし、もっとトリックっぽく書くのであれば、見えないものが見えたり、見えるはずのものが見えなかったりするというわけだ。バンプオブチキンみたいなことを書いてしまった。


私の好きな『嵐が丘(ワザリングハイツ)』にもこの手法が使われている。視点人物の理解に偏りがあるために真相(というか一次情報?)と二次情報の印象に大きな隔たりが生じるという構造をとっている作品だ。先日読んだ「ポイズンドーター・ホーリーマザー」にも同じ事実をもとに全く違った印象を産み出す二篇が収録されていたし、広く普及している手法であるのだとは思う。私も好きすぎて拙作『フィルター / 暖色・寒色・セピア』で全く同じ文章構成で事実やセリフを三つの視点で違う印象に捉えなおすという試みをやったことがあるくらいだし。こういった「信頼できない語り手」は三人称視点では容易には為せない手法だ。


『ファイト・クラブ』はその辺りの隠匿があまりに上手かった。私が映像での「信頼できない語り手」に慣れていなかったということもあるんだろうけど、新鮮な気持ちで観られました。展開や構造がこれだけ質の高いエンターテインメントなのに内容がしっかり社会派なのもギャップが利いていていいですね。全体的に痛そうだったので、そこだけ身を固くして観ていましたが。根が軟弱者なので。

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